07:ただのブラコンじゃん!
「あ、そうでした。入浴に行かれてたんでしたね。お帰りなさいませ、総司様」
要は笑顔で寝室の扉を閉め、白々しく一礼した。
「かーなーめー? 何してんだお前、わざと見せただろ?」
総司は乱暴に扉を閉めて部屋を突っ切り、要の胸倉を掴んだ。
「総司様、お客様の前ですよ? 素を出していいんですか?」
胸倉を掴まれているというのに、要は全く動じず微笑んでいる。
「見られた以上は猫被っても意味ねえだろーが!! どう取り繕えって言うんだ!? いけしゃあしゃあと、よくもまあ、どの口が……!!」
「せ、先輩、首はダメです、首は!」
「ちっ」
慌てて菜乃花が止めると総司は舌打ちし、要の首にかけていた手を離した。
「で? 何しに来たわけ?」
総司は勉強机の椅子を半回転させて、どかっと腰を下ろした。
長い足と腕を組んで、王様のようにふんぞり返る。
(この人、本当に天坂先輩だよね……?)
実はそっくりさんと入れ替わっているのではないか。
馬鹿馬鹿しい妄想を振り払い、菜乃花は切り出した。
「先輩は千影くんのことが嫌いなんですかと聞きに来ました。でも違うんですね。本当は好きなんですね?」
嫌いなら写真を飾ったりはしないだろう。
ましてや、彼を模した人形まで作るなんて、愛以外の何物でもない。
「何かと思えば、そんなくだらないことを聞きに来たのかよ」
「くだらなくありません。大事なことです。先輩に嫌われてると思って、千影くんは悲しんでます。違うなら、どうしてそう言わないんですか。どうしてわざと傷つけるような態度を取るんですか。私には全く理解できません」
総司は不愉快そうに目を細めた。
お前には関係ないと冷たく切り捨てられそうな予感がして、菜乃花は彼と同じくらいの強い目で総司を見返した。
「納得できる理由を聞けるまで、私、ここから動きませんから」
無論、はったりだ。
総司が要に一声命じれば、強制的に追い出されて終了である。
(でも、それなら何度だって聞くまでよ。ストーカーみたく付きまとってやるわ)
菜乃花の強固な意思を感じ取ったらしく、総司はため息をついた。
そして、渋々ながら語り出す。
「……天坂って家はクソだ。テストで98点取ったとしたら、褒めるどころか、何故あと2点取れなかったのかと責められる。礼儀作法にも厳しく、ちょっと足を崩しただけで、はしたないと叱責が飛んでくる。『天坂たる者、万事完璧にできて当然』なんて言葉を教育係が平気で使う。なんであろうと1位でなければ許されない。一つ課題をこなせばさらに求められるレベルが上がる。際限なく」
聞いているだけで憂鬱になる話を、菜乃花は黙って受け止めた。
「世界で一番くつろげない場所が実家だ。悲劇だろ。ほんとクソだよ」
総司はうんざりした顔で言って、頭を掻いた。
「おれはまだいい。やればやるほど上がっていく無茶な要求も、死ぬ気でやれば応じられる。その程度の才能はあった。でも千影はそうじゃなかった。教育係はおれと同様、千影にも熱心に教えを授けたが、ある日とうとう見放した。それ以来、千影はいないものとして扱われることになった。いまじゃ本家の人間は誰も千影と口を利かない。おれもそうだ。本家の一員として、千影を無視してる」
「どうして?」
到底納得いかずに訊く。
「あの家では当主であるじーさまが絶対なんだよ。じーさまが白と言えば黒も白になる。表立って千影を庇えばますます酷いことになる」
「表立って庇えないなら、裏でフォローしてるんですか?」
溺愛っぷりから推測すると、総司は一瞬黙り、目を逸らした。
「……そんなことするわけ」
「いえ、してます。総司様は私たちに命じて千影様をフォローしました。私たち使用人は総司様の代わりに、これでもかと甘やかしまくりましたよ」
「だ・か・ら! 言うなよ!!」
総司は赤面して、斜め後ろに立つ要の腕に鋭い手刀を入れた。
照れている総司は、仮面のような嘘臭い微笑を貼り付けている普段の彼より、よほど魅力的だ。
だから、不思議で仕方ない。
「……でも、こうしていまは寮で暮らしてるじゃないですか。天坂の家を出たなら、もう千影くんに冷たくする必要はないんじゃないですか?」
「家を出ても監視の目はあるさ。天坂と取引してる会社の子女が五桜に何人通ってると思ってんだ。仮に監視の目がなくたっておれは千影に冷たくするね」
「どうして」
非難を込めて視線を強くすると、総司は全く予想外のことを口にした。
「下手に優しくしたら、千影が天坂の家を捨てられなくなる」
「…………!」
菜乃花は瞠目した。
「おれごと天坂を嫌えばいい。おれと同じように千影も五桜に通えと命じられたけど、あいつは完全に落ちこぼれてるだろ。無理もない。五桜は偏差値70越えの進学校だぞ? 勉強が苦手なら辞めて、学力相応の高校に通えばいいんだ。千影がそう決意したら、おれは応援するよ。じーさまが学費を払わないって言うなら、おれが出す」
(……ああ。『転校しろ』って、意地悪で言ったわけじゃないんだ。天坂くんのためを思って……)
「そうと知られないように金を送る。天坂の家を出たからって、衣食住には不自由させない。就職できなくてもいい。おれが一生養ってやる」
「……それはちょっと過保護なのでは?」
さすがにツッコむ。
「放っとけ。もういいだろ。話はこれで終わりだ」
総司は虫でも払うように片手を振ったが、菜乃花は食い下がった。
「終わってません。たとえどんな事情があっても、千影くんを無視するのは止めてください。千影くんは先輩のことが好きなんですよ? 仲良くしたいと思ってるんですよ?」
「まさか。そんなことあるわけない」
「どうしてわかるんですか」
「あのー、お二人とも。それは千影様本人に直接聞いてはいかがでしょう?」
言い合いになりかけたそのとき、要が割って入ってきた。
総司と揃って見れば、要はポケットからスマホを取り出し、胸の前に掲げてみせた。
スマホの画面表示は『通話中 天坂千影』。
総司がぎょっとして固まる。
「というわけで、千影様、どうぞー!」
要が呼びかけると、廊下に続く扉が開き、千影が姿を現した。
ぽかんとしている間に、千影は握っていたスマホをポケットに入れ、部屋の中に入ってきた。
パタン、と扉が閉まる音が、静まり返った部屋に響く。
「なんで……?」
まだ理解が追い付かないまま、呆然として聞く。
「伏見さんが部屋に来て。要から電話がかかってきたら、電話を繋いだまま兄貴の部屋に行けって言われた」
千影の言葉で、菜乃花は全てを悟った。
(伏見さんはこの時間帯が天坂先輩の入浴時間だと知ってたんだ。だから私を焚きつけて先輩の部屋に行かせた。私が着く前に近衛先輩に連絡して、わざと天坂先輩の寝室を見せて、弟を溺愛してることを認めざるを得ない状況を作り上げた。しかも当事者である天坂くんにも私たちのやり取りを聞かせた!! なんて人なの!? 好き!!)
「いまの話、本当なのか?」
千影は総司の前に立った。
「…………」
総司は青い顔で黙している。
杏の策略により、菜乃花は総司の寝室を見た。
総司がどんな嘘を吐こうと、千影に寝室を見せれば一発アウトだ。
「なあ。兄貴。俺のことが嫌いなんじゃなかったのか?」
総司は答えない。
「もー、じれったいですね。いつもみたいに『ちーちゃん超可愛い♡』って言えばいいじゃないですか」
窮地を切り抜けるべく脳をフル回転させているであろう総司の苦悩を、要が台無しにした。
「要!!」
総司は青かった顔を一転、真っ赤にして跳ねるように立ち上がった。
「ちーちゃん? え? 俺のこと?」
「そうですよ千影様。この人はね、夜ごと私を部屋に呼んでどんなに弟が可愛いかを自慢してくるんですよ。そればかりか、毎日お手製のぬいぐるみを抱いて寝てるんですから。もはや狂気ですよ狂気」
(お手製なの!? あのクオリティで!? 嘘でしょ!?)
多方面の才能があることは知っていたが、総司は裁縫の腕までもプロ並みだったらしい。
「ぬいぐるみ?」
「なんでもない! なんでもないから!! 追及するな!! 減給されたくないなら黙ってろ要!!」
わかりやすく焦って、総司は要の口を閉じさせた。
「よくわからないけど、どうなんだ? 兄貴は俺のためを思ってこれまでわざと邪険にしてたのか?」
話し相手を失った千影が総司を見る。
「……まあな」
ついに観念したらしく、総司は認めた。
「どんな事情があろうと、おれはお前を散々傷つけた。憎むべきだし、許さなくていい。事実を知ったところで何も変わらない。これまで通り、おれはお前を無視するし――」
「なんで?」
静かな問いが、総司の言葉を止めた。
「兄貴は俺のこと、嫌いじゃないんだろ。だったら無視しないでくれ。俺は兄貴と仲良くしたい。園田さんには妹がいて、園田さんは妹と仲が良いんだって」
千影はちらりと菜乃花を見た。
(頑張れ)
その気持ちを込めて頷くと、千影も頷き返し、また総司を見つめた。
「三歳差だから、同じ学校に通えたのは小学生のときだけだったけど。それでも校内で会ったら挨拶してたんだって。俺も兄貴とそういう関係になりたい。目が合ったのに無視されるのは……寂しい」
俯いている兄ただ一人に向けて、千影は自分の思いを語った。
「家で無視するのはいいよ。兄貴は将来天坂のトップに立つ人間だ。落ちこぼれの弟のことなんて気にしなくていい。でも、学校の中でまで……せめて寮の、俺ら以外に誰もいない、この部屋の中では。無視しないでよ。兄ちゃん」
兄ちゃん。
甘えたようなその呼称が、総司の心を動かす決定打になった。
「……千影は」
総司は顔を上げ、真剣な瞳で問うた。
「おれのこと、嫌いじゃないのか。酷いことばっかり言ったのに」
「嫌いなら仲よくしようなんて言わない」
「……天使なの?」
「え? なんて?」
小声で聞き取れなかったらしく、千影が首を傾げた。
(私には聞こえたぞ! いま先輩、真顔で天坂くんのこと天使って言った!! ぽろっとブラコンの片鱗が見えた!!)
「なんでもない。わかった。明日家に行って、じーさまと話してくる。……千影はこのまま五桜に通いたいのか? 勉強についていけないなら、無理せず転校したほうがいいんじゃないのか? 転校したいと思うなら、おれが話を通しておくぞ?」
(えっ。転校って、本当に?)
菜乃花は酷く狼狽え、千影を見た。
「いや、頑張る。友達もできたし」
千影の返答には迷いがなく、菜乃花はこっそり安堵の息を吐いた。
「そっか。じゃあ、頑張れ」
肩でも叩こうと思ったのか、総司は右手を上げかけて、すぐに下ろした。
冷たくし続けた自分には弟に触れる資格がないと思ったのか、それともいったん触れたら弟愛が止まらず暴走すると思ったのか。
寝室の惨状を思えば、後者の可能性は十分にあり得る。
「話は終わりだ」
これ以上の会話を拒絶するように、総司はくるりと背を向けた。
隣で要が申し訳なさそうに身体の前で両手を合わせている。
主人が無礼でごめんね、というメッセージを受け取り、菜乃花は目で「気にしていない」と答えた。
「ああ。また明日。行こう、園田さん」
千影と共に退室する。
扉を閉めた途端、千影が息を吐いた。
「……まさか兄貴があんなこと考えてるなんて思わなかった。一生養うとか、凄い冗談だよな」
(いやあれは本気だったよ! 絶対本気だった!!)
「そうだね……」
菜乃花は曖昧に笑ってごまかし、歩き始めた千影の隣に並んだ。
後ろではなく、彼の隣。
千影はそれを咎めない。
そんな些細なことが、とても嬉しくて、幸せだ。
(今日一日、本当にいろんなことがあったなあ。遠くから眺めるだけの日々だったのに、いまは天坂くんが私の隣を歩いてる。嘘みたい)
「園田さん、ありがとう。俺のために行動してくれて」
階段に差し掛かったところで、千影が言った。
「兄貴の本音が聞けたのも、園田さんのおかげだ。感謝してる」
柔らかい微笑みに、どきりと胸が鳴る。
「友達っていいもんだな」
しみじみした口調で言われてつんのめり、危うく階段から落ちそうになった。
さすがにもう転落は懲り懲りなので、とっさに手すりを掴む。
「大丈夫!?」
千影が慌てて菜乃花の腰を支え、転落を防いでくれた。
「うん。大丈夫。友達……うん……友達だもんね、私たち……」
ただの友達だったらここまでしないとか、色々言いたかったけれど、言えない。
友達だと強調したのは自分なのだから。
(なんの、勝負はこれからよ! 『友達』という立場で満足してなるものか! 私、頑張るわ! 自分を磨いて、きっといつか二次元美少女に勝ってみせる……!)
並んで階段を下り切ると、ふと思いついたような調子で千影が言った。
「ところでさ。兄貴も天坂だし、ややこしいから千影でいいよ」
「……! うん! 千影くんって呼ぶね!」
菜乃花は満面の笑みを浮かべた。
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