06:「見たな?」
「むー……」
午後九時。
菜乃花は自室のベッドに身を投げ出し、天井を見上げて唸っていた。
ベッドは一人用にしては大きく、ふかふかで、シーツの肌触りも良い。百点満点である。
用事がないときは壁際に立ち、完璧なまでに気配を殺している杏もまた素晴らしいメイドだ。
入浴の時も彼女は的確に菜乃花を補佐し、髪や背中を洗ってくれた。
入浴の前に食べた夕食は全てが手の込んだ逸品で美味しかった。
総じて、生活に不満はない……のだが。
「……気に入らない……」
「何が?」
話し相手が欲しい雰囲気を察したらしく、有能なメイドが寄ってきた。
菜乃花は服を着替えたが、杏はまだメイド服を着ている。
菜乃花が「もう良い」と言うまでメイド業務を続けるつもりらしい。
「ノートのコピーをもらうついでに、
菜乃花は起き上がり、ベッドの端に座った。
彼女はいくつもグループ会社を持つ大手アパレルメーカーの社長令嬢で、その長身と美貌を活かし、自社製品のモデルもしている。
類まれなる美貌と社長令嬢という肩書きに気後れしてしまって、クラスでも話したことはなかったのだが、いざ夕食のときに顔を合わせ、おっかなびっくり話しかけてみれば、クールながらも有紗は受け答えしてくれた。
頼んだら午後の授業のノートのコピーもさせてくれた。
「ええ。お互い話しかけようとはしないわね。前に話すところを見たのは中間テストの結果が出たときよ。場所は大広間で、時刻は夕食の前だった。総司様が虫けらを見るような目で千影様を見ていらしたから、覚えてる」
「なんっっであの兄貴は弟にそこまで冷たいの!?」
憤懣やるかたなく、左手でベッドを叩く。
千影の部屋に行ったとき、彼とこんなやり取りをした。
――兄貴なら勉強のやり方を間違えたりしないのにな。何をさせても、効率的な方法で最高の結果を出すのにな。俺は本当、ダメな奴だ。嫌われるのも仕方ない。
自嘲と諦めが滲んだ声だった。
――天坂くんは、お兄さんと仲良くしたい?
――したいけど。無理だろ。兄貴は俺のことが嫌いなんだ。
自嘲と諦め、その裏に一抹の寂しさを感じ取って、菜乃花は悲しかった。
そして同時に腹が立った。
夕食のとき、他人とは朗らかに話しても、弟のほうは一瞥もしない兄を見て、怒りは頂点に達した。
それでも菜乃花は総司に抗議できない。
悲しむ千影を慰めたところで根本的な解決にはならない。
千影が望んでいるのは兄との関係改善であって、そこに菜乃花の介入する余地はないのだから。
何もできない――その事実がより一層、菜乃花を苛立たせる。
「――だから、私は天坂先輩に猛烈に腹が立ってるの」
「ふうん……」
身振り手振りを加え、言葉を尽くして総司への不満を訴えると、杏は顎に人差し指を当てて考える素振りを見せた。
「まあね。たとえ実の兄とはいえ、好きな人がないがしろにされていたら、恋する乙女としては怒るのも当然ね」
「こ、恋する乙女って……そんな大層なものじゃないけど……」
気恥ずかしくなり、腹の前で右手の指を揉む。
杏はメイド服のポケットからスマホを取り出した。
「九時十六分か」
時計を確認してから、杏はスマホをポケットに戻した。
「なら、総司様に直接不満をぶつけたらどう?」
「えっ!? そんなことしたら退学させられるかも……」
菜乃花は狼狽え、手を下ろした。
「そうね。総司様はそれくらい簡単にやってのけるでしょう。でも、だからってビビってたら何もできないわよ?」
杏はすっと右手を上げ、人差し指を菜乃花の胸に突きつけた。
短く切られた爪の先端が、まるで銃口のように菜乃花の心臓に向けられている。
「そうやって一生愚痴ってるつもりなの? 千影様のことを心底想うなら戦ってきなさいよ。園田さんの想いは、園田さんの怒りは、わが身可愛さに口を噤んでしまえる程度のものなの?」
「――違う!!」
反射的に菜乃花は叫び、立ち上がった。
「私は本当に天坂くんのことが好き、いつだって彼を見てた! 図書館で勉強してる横顔が好きだった、こっち見ないかなってずっと思ってた、ずっと彼のことが好きだった!」
「ならいますべきことは一つでしょう?」
杏は伸ばしていた右腕をひっこめ、立てた親指でびしっと扉を指した。
「行ってらっしゃい。健闘を祈ってるわ」
これまで無表情だった杏が、そこで初めて表情を崩し、不敵に笑った。
「……うん! ありがとう!」
菜乃花は高揚のままに部屋を出た。
一人残った杏は、スマホを取り出して電話をかけた。
「
電話を終えて、独りごちる。
「この際だし、千影様も巻き込んじゃいましょう。ふふ、どうなるのかしら。ちょっと楽しみ」
杏は軽い足取りで歩き出した。
(言ってやる。たとえ天下の天坂の御曹司だろうと、がつんと言ってやるわ。もう我慢ならない)
杏に活を入れられた菜乃花の気合は十分だった。
通りすがりの使用人を捕まえて総司の部屋の位置を聞き出し、階段を上る。
三階にある総司の部屋の前には執事姿の使用人が立っていた。
昼間、総司と話していた淡い茶髪の美少年だ。
彼は2年A組の近衛
近衛家は代々天坂家に仕える家柄で、幼少の頃から要は護衛兼使用人として総司に付き従っているという。
なお、千影にもそういった人物がいたらしいが、中等部の頃には解雇済み。
優秀な兄に比べて落ちこぼれの千影は天坂家に見放され、放置されているのが現状だそうだ。
「こんばんは。総司様にご用事でしょうか?」
柔和な微笑みを浮かべて、要は挨拶してきた。
「はい。夜分にすみません。天坂先輩と話がしたいんです」
「では、どうぞお入りください」
(えっ?)
てっきり総司の許可を得るまで待つように言われるかと思ったが、要は部屋の扉を押し開け、中へ招いた。
(入っていい……んだよね? 招かれたわけだし……)
「……失礼します」
本当に良いのかなと思いながら、遠慮がちに足を踏み入れる。
部屋の本棚には専門的な学術書から辞書、参考書、多種多様な本が詰め込まれていた。
漫画やライトノベルといった娯楽系のものは一切ない。
机は二つあり、勉強用に使われているらしきものと、もう一つにはデスクトップパソコンがどんと鎮座している。
株やFX取引でもしているのか、モニターは3台あった。
「先輩は……?」
総司本人の姿がない。
「寝てるのかもしれませんね」
止める暇もなく、要は寝室に続くはずの扉を開けた。
さすがに寝室を見るのは無礼だと思い、慌てて視線を外そうと思ったのだが――菜乃花は見た。見てしまった。
総司の寝室には菜乃花のものより大きなベッドがあった。
しかし問題はそこではない。
寝室の壁にはびっしりと写真が貼ってあった。
全て千影が映っている。
幼い頃の写真から、初等部、中等部、高等部、現在に至るまで。
(……これは……)
しかも、ベッドの枕元には特製の千影を模したぬいぐるみが置いてあった。
二頭身にデフォルメされているが、あれは千影だ。
黒縁眼鏡、長めの前髪、五桜学園の制服――どう見ても千影である。
菜乃花は白目になった。
壁一面に特定の個人の写真が貼られている異常な光景は、有り体に言って、めちゃくちゃ怖かった。
(どういうことなの……先輩は天坂くんのことが嫌いなんじゃなかったの?)
これではまるで、溺愛しているようではないか。
「見たな」
「ひっ!?」
背後から声が聞こえて、菜乃花は床から数センチ飛び上がった。
凄まじい怒りのオーラを立ち上らせながら、総司が部屋の入口に立っている。
入浴に行っていたのか、服が夕食時とは変わっていた。
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