04:思いがけない提案

 午後の授業が終わり、終礼も済めば放課後となる。

 帰宅部の菜乃花にとって放課後は自由時間だが、大抵、図書館に直行して引き続き勉学に励む。


「さすが優等生、学生の鑑だね」

 などと、クラスメイトから揶揄混じりに言われたこともあるが――


(――単に、放課後遊びに行くような友人がいないだけだったりして)

 行動を共にしたいと思えるような友人がいない他に、寮のルームメイトとあまり気が合わず、できるだけ学校にいる時間を引き延ばしたいという事情もあったりする。


「今日はどこに行こうか」

「新しくオープンしたカフェはどう? パフェが美味しいらしいよ」

 昇降口に着くと、菜乃花は左手に持っていた鞄をいったん足元に置いた。

 これから街に繰り出すらしい女子グループの会話を聞きながら、すっかり履き慣れたローファーを取り出し、上履きを下駄箱に入れて蓋を閉じる。


 利き手が使えないのはなかなかに面倒だ。

 つい癖で右手を動かしそうになり、右手首に走る痛みで現状を思い知って右手を下ろし、代わりに左手を動かす。そんなことが何度もあった。


(あと二週間か。長いな。でもこの怪我のおかげで天坂くんとお近づきになれたんだから、文句なんて言えるわけないわ)

 ローファーを履いて再び左手で鞄を持ち、昇降口を出て図書館に向かう。


 五桜学園の図書館は学校のほぼ中心にあり、十万冊近い蔵書数を誇る。

 保管されている図書は漫画から新聞、雑誌、辞書、図鑑、大学入試過去問といった受験教材など多岐に渡り、普段から利用者は多い。


 入口の自動ドアを通過し、館内に足を踏み入れると、たちまち本の匂いがした。

 インクと、わずかに黴の混じったような、独特な匂い。

 菜乃花はこの匂いが結構好きだ。


 エレベーターに乗り、自習スペースとして開放された五階に上がる。

 探すまでもなく、千影はいつもの場所にいた。

 席が空いていても、彼は一番目立たない端っこにいる。


「天坂くん」

 小さな声で呼びかけると、千影は首を動かしてこちらを向いた。


「こんにちは」

「こんにちは」

 いちいち挨拶してくる彼の礼儀正しさに笑みを噛み殺していると、千影は机に広げていたノートや教科書を閉じ、鞄に入れた。

 菜乃花と同じ、学校指定の紺色の鞄だ。

 彼らしいというべきか、装飾の類は一切ない。

 菜乃花の鞄には小さな雪だるまのマスコットキーホルダーがついている。

 装飾があれば一目で自分の鞄だとわかるだろうと、入学前に桃花がつけてくれた。

 お世辞にも可愛いとは言い難い、微妙な顔の雪だるまだが、ずっとつけているとそれなりに愛着も沸くから不思議だ。


「いきなりだけど、ついてきてほしい。会わせたい人がいるんだ」

「? わかった」

 彼が片付けるのを待ってから歩き出そうとすると、千影は「持つよ」と言って菜乃花の手から鞄を取り上げた。


「ありがとう」

 断るべきかとも思ったが、彼の罪悪感が軽くなるのならと、菜乃花は受け入れた。

 自習スペースを横切り、さっき乗ったばかりのエレベーターに乗る。

 千影が押したのは『3』の数字。


(目的は会議室かな?)

 三階には申請すれば生徒でも使える会議室がいくつかある。


「会わせたい人って、誰?」

 落下の感覚に身を委ねながら訊く。


「兄貴」

「え!? なんで?」

 驚きの感情を大きく表に出した菜乃花とは対照的に、千影は冷静だった。


「利き手が使えないんじゃ日常生活も不便だと思って。昼休憩が終わる前に、兄貴に頼んだんだ。腕が治るまで、園田さんを0号館に住ませてくれないかって」

(仲が悪いのに、私のためにわざわざ頼んでくれたの?)

 困惑と同時、猛烈に嬉しかった。


「0号館ならメイドもいるし、俺も住んでるから、園田さんが困ったときはいつでも助けられる。それに、勉強を教えてくれるって話だっただろ? 寮の自室なら周囲の目や耳を気にしなくて済むし、一石二鳥かなって……余計なお世話だった?」

 急に自信を無くしたように、千影は不安そうな顔になった。


「ううん、まさか。気持ちはありがたいよ。でも……無理じゃないかな。うちに0号館に住むような経済的余裕はないよ」

 0号館の寮費はとんでもなく高いし、第一、あの立派な洋館に住むには審査があって、相応の家柄と財力が必要だと聞いた。


「もちろんそれは俺が、正確には天坂の家が負担する。だったらどう? 遠慮せず、正直に言って」

 エレベーターが三階に着いて、扉が開いた。

 両手に鞄を持った千影に続いてエレベーターを下り、数歩歩いて止まる。

 千影が足を止めてこちらを見ているからだ。


(正直にと言われたら、全力でイエスなんだけども)

 好きな人とひとつ屋根の下で共同生活を送れば親密になれる可能性は高いし、メイド付きの豪華な洋館に住めるなんて夢のようだ。


 万歳三唱したいくらいだが、理性が待ったをかけている。


「親がなんていうか」

 懸念事項はそれだ。

 菜乃花は未成年で、両親に養育してもらっている身。

 住む場所を変えることなど、菜乃花の一存では決められない。


「それも兄貴が交渉するよ」

(うわー)

 電話口に出るのは父か母かわからないが、どちらであっても、相手が天坂の御曹司だと知ったら泡を吹いて卒倒しそうだ。


(でも多分、嫌とは言わないな。うん)

 はい是非よろしくお願いしますお任せしますと、スマホを握り締めてコメツキバッタのようにペコペコ頭を下げる図が容易に思い描けてしまう。

 両親がGOを出すなら、菜乃花の返事は一つである。


「親がいいって言ったら、是非。一緒に住みたいな」


(はっ!? 何言ってんの、いくら正直にって言ったって正直すぎるでしょ! これじゃ好きですって言ってるようなものじゃない!! 『よろしくお願いします』程度でとどめておけばいいものを、私の馬鹿! 馬鹿馬鹿!!)

 赤面したが、千影は菜乃花の恋愛感情には全く気付いていないらしく、眉ひとつ動かさなかった。


「良かった。じゃあ行こう」

 千影は絨毯が敷かれた通路を歩き、会議室へ向かった。


(……うん、これで良い……はずなんだけど、天坂くんってめちゃくちゃ鈍いんだな……三次元の女子なんてアウトオブ眼中なのかな……そもそも友達って強調したのは私か……)

 頰を掻き、彼の後を追う。

 千影は鞄を左手でまとめて二つ持ち、会議室の扉をノックした。


「どうぞ」

 扉越しに聞こえたのは、低く透き通った、男性の声。


(――天坂先輩?)

 千影が扉を開くと、予想通りに総司がいた。

 黒板の前、最前列のテーブルに座っていた彼は、菜乃花の姿を認めて立ち上がった。


「初めまして。2年A組、天坂総司といいます」

 総司は優雅に頭を下げた。

 流れるような所作の美しさに、菜乃花はこっそり感嘆した。


「初めまして、とは言ったけど。昼間にも会ったよね。園田さん」

 菜乃花の緊張を読み取ったのか、総司はくすりと笑った。


 まるで魔法だ。彼が笑ったことで、たちまち緊張が消え去った。


(……うう。悔しいけど、みんなが夢中になるのもわかる……)

 しかし、呑まれるわけにはいかない。

 負けじと菜乃花は胸を張り、微笑んでみせた。


「はい、お会いしましたね。でも、言葉を交わすのは初めてですし、私からも挨拶させてください。1年A組、園田菜乃花です。よろしくお願いします」

「こちらこそ。この度は本当に申し訳ない。昼間、園田さんを見かけたときに、その手はどうしたのかなって思ったんだけど。まさか愚弟のせいだとは」


 総司は菜乃花に向ける穏やかなそれとは一転して、冷ややかな眼差しを弟に注いだ。

 千影は所在なさげに俯いている。


 空気が張りつめ、同じ空間にいるだけで息が苦しい。


(この兄弟はいつもこんな感じなの?)

 嫌悪を隠そうともしない兄と、可哀そうなくらい肩をすぼめて立つ弟。


 見ていられず、菜乃花は一歩足を踏み出し、立ち位置を調整した。

 自分の身体を使って千影を隠すようにしながら言う。


「その件についてはもう何度も謝ってもらいましたから、私は全く気にしていません。完全に解決していますので、蒸し返すのは止めてください」

 敵意を視線に込めて叩きつける。


 大変な無礼を働いている自覚はあった。

 身内に官僚や弁護士がいる天坂の権力は絶大だ。

 気に入らない生徒の一人くらい、簡単に退学まで追い込むだろう。


 虫を指先で弾く労力すらいらない。

 彼が一言発するだけで周りが動く。


(そんなの知ったことか。天坂先輩がなんでもできる完璧超人だろうと、弟を見下していい理由にはならないでしょう。天坂くんをそういう目で見るのは止めて。不愉快)

 無論、その感情は総司にも伝わったはずだが――


「そう」

 意外にも、総司は無礼を咎めることなく、微笑を浮かべた。

 菜乃花をどう思っているのかを全く窺わせない、仮面のような笑顔。

 身内にはともかく、他人にはおいそれと内なる感情を見せないよう教育されているのかもしれない。


「なら何も言うことはないね。建設的な話をしよう。怪我が完治するまでの間、0号館に住む気はない? 園田さん専属のメイドを一人つけて日々のケアを任せようと思ってるんだ。どうかな?」

「いえいえ、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」


(身動きひとつ取れないならまだしも、右手首の捻挫くらいで世話をしてもらうなんて大げさだし、恐れ多いわ)

 社長令嬢や名家の子女ならためらいなく申し出を受けるのだろうが、庶民の菜乃花にとって専属メイドなど物語の中の存在だ。

 自分には似つかわしくない。そう思う。


「いや、これはせめてものお詫びだから。園田さんが要らないというなら、一人のメイドが路頭に迷うことになるんだけど、いいんだね?」

「……わかりました……」

(ずるい。そんな言い方をされたら、断れないじゃない)


「それじゃ、早速だけど、ご両親に連絡はつくかな?」

 微笑を顔に貼り付けたまま、総司が言った。

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