03:絶対、許すまじ!
五桜学園の食堂は広くて立派だ。
お洒落なデザインの照明が吊り下げられた天井、壁にかけられた美しい絵画、ところどころに置かれた観葉植物。
テーブルは長方形と円形の二種類があり、備えられた椅子は座面にクッションが張られた高級なもの。
昼のピークは過ぎたこともあって、食堂はかなり空いていた。
菜乃花たちは緩やかな螺旋階段の近くのテーブル席に向かい合って座った。
食堂は吹き抜け構造になっていて、どの席も利用可能だが、二階は上級生が使う場所だという暗黙の了解がある。
たとえ二階が空いていても、一年が二階に上がれば上級生たちの無言の圧力に晒される。
生意気な後輩だと目をつけられるのはご免なので、菜乃花は一度も階段を上ったことがない。
(あ。天坂先輩だ)
慣れない左手を使ってネギトロ丼を食べていた菜乃花は、二階の一角に目を留めた。
息を呑むほど美しい少年が八人掛けのテーブルに座り、友人らしき男女と和やかに会話している。
彼は二年A組、天坂総司。
絹のように艶やかな髪、くっきりとした二重まぶた、力強い瞳、通った鼻筋、リップクリームも塗っていないのにしっとりと潤んだ桃色の唇。
180センチの痩身は理想的な筋肉の付き方をしている。
成績は入学から不動の1位、全国模試ですら1位になることがあるという。
それでいてスポーツも万能、芸術面にも秀で、何をさせても1位を狙える多芸多才っぷり。
超一流企業『天坂物産』の御曹司で、五桜学園理事長の甥でもある彼は高嶺の花のような存在だ。
大勢のファンを抱えた人気者はどこにいても注目の的。
いまも食堂のあちこちから、憧れと羨望のこもった熱い視線が彼に注がれていた。
「…………」
向かいの席の少年に目を戻す。
総司の弟は顔を伏せ、黙々と唐揚げ定食を食べている。
菜乃花たちの隣のテーブルの女子グループは「誕生日に車を買ってもらって~」という、いかにも社長令嬢らしい、セレブな話に花を咲かせている。
彼女たちだけではなく、食堂にいる誰もが千影に一瞥もくれない。
「兄弟なのに落差が酷いって思ってるだろ」
千影が視線だけを上げ、いきなり図星を突いてきた。
「!!! えっと――」
「謝らなくていい。兄貴と比べてダメな奴。何の取り柄もない、つまらない人間。耳にタコができるくらい言われたよ。でも、事実その通りだから、言い返せないんだよな」
千影は怒りも悲しみもない無表情で、淡々と言った。
他者に何度も貶され続けた結果、感情が麻痺したのかもしれない。
「そんなことないよ、天坂くんにだっていいところが……」
「無理に褒めなくていいよ。兄貴に敵うところなんて何一つないって、俺が一番身に染みてわかってる。お世辞を言われたって空しくなるだけだから、止めてくれ」
千影は付け合わせのサラダを口に運んだ。
一流ホテルで働いていたシェフ手作りの豊富なドレッシングの中で、彼が選んだのは刻み玉ねぎ味。
些細なことだが、彼の好みはしっかりと菜乃花の脳にインプットされた。
(……昔からお兄さんと比較されて、馬鹿にされて、それで卑屈になって『根暗』とか『空気』とか呼ばれるようになっちゃったのかな……)
菜乃花に怪我を負わせたときの謝罪も大げさすぎた。
「当の兄貴にも、恥ずかしいから学校では声をかけるなって言われてる」
「そんな……」
さらりと付け足された言葉に、菜乃花は絶句した。
菜乃花には三つ歳の離れた妹――
姉妹は仲が良く、同じ小学校に通っていたときは、学校内で会えば必ず挨拶した。
たとえ友達と話していても、桃花は姉に気づけば片手をあげたり、笑顔になったりして、ちゃんと合図してくれた。
特待生として五桜に入学するときも「おねーちゃん頑張って!」と両親共々応援してくれた。
昨日、寮で電話したときも、五桜学園に通う姉がいるなんて鼻が高い、学年一位なんて凄いと、弾んだ声で言ってくれた。
(私には可愛い妹しかいないけど。でも。もし)
菜乃花に姉がいて、その姉が自分より遥かに優秀で、自分を嫌い、見下していたとしたら。
お前のような不出来な妹は恥だ、人前では話しかけるなと、冷たく言われたら。
――どんな気持ちになるかなんて、考えたくもない。
「…………」
菜乃花は掌に爪が食い込むほど左手を強く握り、二階を見上げた。
総司は友達に囲まれて笑っている。
(あらゆる才能に恵まれながら、偉ぶることなく謙虚で、分け隔てなく人と接する人格者。天坂先輩を嫌う人なんているはずがない。絶対的な学園のアイドル)
皆が口を揃えて言うように、菜乃花もそう信じていた。けれど。
(本当に人格者なら弟のことも大事にするはずでしょう。たった一人の弟なのに、酷すぎる)
いますぐ階段を駆け上って、総司の染み一つない滑らかな頬に拳をめり込ませてやりたいが、そんなことは不可能だし、全く意味がない。
わかっている。
これは兄弟の問題で、菜乃花は部外者だ。
部外者の菜乃花が総司を叱り飛ばしたところで何の解決にもならないどころか、より事態は悪化する。
(私にできることは一つだけ)
腹が減っては戦はできぬ。
菜乃花はおもむろにスプーンを掴み、残っていたネギトロ丼をかき込んだ。
既に唐揚げ定食を食べ終えていた千影は、高速で米を咀嚼し、豪快に水を呷る菜乃花を唖然と見ている。
「――ごちそうさまでしたっ」
菜乃花は空になったコップをトレーに置いて、トレーごと器をテーブルの端に寄せた。
「天坂くん」
椅子から腰を浮かせて左手を伸ばし、がしっと彼の腕を掴む。
その衝撃で、彼の黒縁眼鏡が少しずれた。
「な、何?」
千影は目を白黒させた。
「期末テスト、1位取るよ」
「………………は?」
未知の外国語を聞かされたような反応。
「だから、期末テストで1位を取るの。学年トップになれば天坂先輩だってもう『恥ずかしい』なんて言わないでしょ。このままじゃ悔しいじゃない。見直させようよ。やればできることを見せつけてやろう」
腕を握った手に力を込めると、千影は呆けたまま、ゆっくり瞬きした。
「……俺、三教科赤点だったって言ったよな? 落ちこぼれが学年トップなんてなれると思う? カンニングでもしなきゃ無理だぞ」
(断言しちゃうんだ……)
自己評価が低すぎて、聞いているこちらが悲しくなった。
「なれるかなれないかじゃない、なるの。そりゃ、いきなり学年トップを狙うのは難しいかもしれないけど、ちょっとずつ順位を上げていこうよ。大丈夫、私も協力するから。絶対に1位を取るっていう意気込みが大事なの。私にできるのは手助けだけ。天坂くん自身が頑張らなきゃダメなの」
上体を寄せ、至近距離から目を合わせる。
千影は冴えない風貌だと言われているが、実はそんなことはない。
皆、雰囲気でそうと決め付けているだけで、かなり整った顔立ちをしている。
猫背を止めて背筋を伸ばし、野暮ったい黒縁眼鏡を外してコンタクトに変え、長すぎる前髪を切って堂々と振る舞えば、周りの評価は一変するだろう。
叶うなら、菜乃花はその手伝いがしたい。
自分を卑下することなく、胸を張って学生生活を謳歌してほしいのだ。
「……気持ちはわかったから、とりあえず、座って」
ひたすら困惑していた千影は静かに言って、眼鏡の縁を右手の人差し指で押し上げた。
言われた通りに座り直す。
これ以上彼の腕を掴んでいたら、周りの生徒に何事かと声を掛けられそうな雰囲気だったので、着席するしかなかった。
「園田さんは、なんでそんなに良くしてくれるんだ?」
(好きだから)
純粋に不思議そうな問いに、内心で即答する。
「友達だから?」
「もちろん。それ以外に理由なんてないよ」
大嘘を、まるで真実のように言いきってみせる。
「凄いな。園田さんは友達のためにそこまで頑張れる人なんだな」
千影は感心したように呟いて、不意に首を捻り、食堂に入って初めて二階を――総司を見た。
菜乃花も見上げたが、総司はこちらを見ず、友人たちと談笑している。
弟がいることに気づいていないのか。
それとも、気づいていながら徹底的に無視しているのか。
形の良い唇を割って零れる微笑、枝毛の一つもなさそうなさらさらの髪、友達らしきポニーテイルの美少女を見返す大きな目、その全てがいまは憎らしい。
「見ても無駄だよ。俺が傍にいる以上、兄貴は絶対こっちを見ない。兄貴は俺のこと、学校では見えないものとして扱うから」
千影は気にした風もなく言って、茶碗を持ち、白米を口に運んだ。
「~~~~」
腹が立って仕方ない。
眉間の皺を取るべく苦心しながら、菜乃花は尋ねた。
「学校ではって、寮では?」
五桜学園は全寮制で、彼らは同じ0号館で暮らしているはずだ。
いくつかある寮のうち、0号館に住む生徒はVIP待遇。
なんとメイドまでついている。
「……前に話したのは中間テストが終わった後。テスト結果を聞かれて、答えたら、転校しろって。お前みたいな馬鹿は五桜に要らないってさ」
「ムカつくー!!」
辛抱堪らず、声に出したばかりか、テーブルを拳で二度叩いてしまった。
かろうじて理性が働き、叩いたといっても軽くだが。
「もー絶対絶対1位取ってやろう!! そんでもって見返してやろう!! ね!?」
「ね!?」に物凄く力を込め、射殺さんばかりの強い目で千影を見つめる。
「……頑張ります」
菜乃花の眼力に負けたらしく、千影は小さく頷いた。
それから、水を一口飲んで、テーブルの一点を見つめて動かなくなった。
何やら考え事をしているようだ。
「……どうしたの?」
「いや。園田さんが俺のためにそんなに頑張ってくれるなら、俺だって少しは頑張ろうと思って。放課後、図書館に来てもらえる?」
「もちろん。勉強教えるって約束したし、行くよ」
二度首を縦に振る。
菜乃花の気合は十分だった。
「ありがとう。ここは片付けておくから、教室に戻って。また図書館で」
千影は微かに笑った。
(また笑った。少しは心を許してくれたのかな?)
そう思うと嬉しくなり、菜乃花も笑んだ。
「うん。じゃあ、お願いします。また後でね」
立ち上がり、食堂の扉へ向かう。
その途中で視線を感じ、菜乃花は足を止めて振り返った。
二階から総司がこちらを見ていた。
目が合うと、彼は愛想よく微笑んだ。
普通なら超絶イケメンに微笑まれたと大喜びするところなのだろうが、菜乃花の胸に宿ったのは闘志の炎だった。
(見てなさいよ。私の好きな人を『恥ずかしい』って言ったこと、撤回させてやる。たとえ兄だろうと、天坂くんを侮辱する人は許さない。敵よ。先輩は私の敵! 天坂くんに謝るまで絶対、ぜーったい許さない!!)
無論、馬鹿正直に感情を表に出すほど菜乃花は愚かではなかった。
総司だけではなく、さっき彼と話していたポニーテイルの美少女や、淡い茶髪の美少年もこちらを見ている。
ここで総司を睨めば「何あの女」と陰口を叩かれること間違いなしだ。
そしてそんな女と親しくしている千影まで悪く言われる。
菜乃花は照れたように笑い返してみせ、前に向き直るや否や一瞬で真顔に戻り、食堂を後にした。
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