02:初めての笑顔
「園田さんって、いい人だな」
「へっ? な、なに? いきなり」
予想外の言葉に狼狽してしまう。
「階段から落ちたときも、俺を庇ってくれただろ。犯人はコイツですって言えば良かったのに、自分が転んで落ちたことにした」
昼休憩の階段には菜乃花たちの他にも三人の生徒がいた。
その場の全員が転げ落ちた直後の菜乃花を目撃したが、菜乃花と千影がぶつかる瞬間を見た人はいなかったようだから、「どうしたの」という問いに対し、菜乃花はとっさに「足を踏み外した」と答えた。
何か言いかけた千影は目で黙らせた。
それが最善だと思った。
「天坂くんが犯人扱いされて、無関係な生徒にあれこれ言われるのが嫌だったから。そもそもちょっと肩がぶつかったくらいで踏ん張れなかった私が悪いんだよ。運動神経が良い人だったら、とっさに手すりを掴んで転落は防げたと思うし。私、勉強は得意なんだけど、運動は苦手で。こんなことになって、余計な心労かけちゃって、むしろ私のほうがごめんだよ」
「園田さんが謝ることない。俺が……」
「うん、わかった。もう謝罪の言葉はいいから。このくだり、いつまでやるの」
苦笑する。
そう言われると困ったらしく、千影は口を閉じた。
「天坂くんは謝りすぎだよ。ごめんなさい、いいですよ、だったらそれで終わり! オーケー?」
「……オーケー」
千影は曖昧に頷いた。
納得はしていないが菜乃花の圧に負けて了承したらしい。
しばらく沈黙が流れ、その間に数人の生徒とすれ違った。
あと一分もせずに食堂に着く。
その前に、菜乃花は勇気を出して切り出した。
「天坂くんってさ。よく放課後、図書館で勉強してるよね」
いつも彼を見ていた。
放課後になると彼は図書館の自習スペースにいる。
大体いつも同じ場所。人目につきにくい東側の、端っこの席。
そこに座って、参考書や教科書を広げ、黙々とシャーペンを走らせる横顔を何度となく見てきた。
日々努力している彼を見ていると、自分も頑張ろうと思えた。
中間テストで1位の快挙を成し遂げたのも、彼のおかげと言っても過言ではない。
「私もよく自習スペースで勉強してたんだけど、知ってた、かな?」
真剣な横顔を見て、偶然でもいいから、こっちを見ないかな――なんて思っていたことを、彼はきっと知らない。
「ああ。たまに見かけてたし」
「ほんと?」
つい、笑みが零れる。気づいて貰えていたのは嬉しかった。
「でも、同じように勉強してても、園田さんと俺じゃ頭の出来が違う。俺は赤点を三つも取ったのに、園田さんは学年主席だ」
千影は菜乃花の襟に視線を注いだ。
菜乃花の襟には金の縁取りが成された桜の形のバッジ――通称『五桜バッジ』が輝いている。
これは学年五位以内だった生徒のみに配られるもので、このバッジをつけている間は学食とカフェテリア無料、その他諸々の特典を得られた。
五桜学園では実力テスト終了後、学年五位以内に入った生徒の情報が掲示されるから、千影もそれを見て菜乃花が学年主席だったことを知ったのだろう。
「A組で学年主席。凄いよな。俺なんてG組の落ちこぼれだ」
この学園では入学時に行われるテストによってクラス分けがなされ、7クラスのうちA組には最も成績が良かった生徒が集まっている。
どうやら、彼は己の学力に相当なコンプレックスがあるらしい。
自虐的な表情がそれを物語っていた。
「そんなこと言わないでよ。点数が悪かったなら、次頑張ればいいじゃない。私で良かったら、勉強教えるよ?」
嫌がられるかと思ってドキドキしたが、意外にも、千影の反応は好感触だった。
「本当?」
ぱあっと表情が輝く――まではいかなかった。
千影は感情変化に乏しく、菜乃花はほとんど無表情しか見たことがない。
でもいま、彼は明らかに期待した目で菜乃花を見ている。
「うん。いいよ」
「ありがとう」
千影はぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。期待に添えたらいいんだけど……」
頭を掻く。
「その代わりと言ってはなんですが……。……いえ。なんでもありません」
口にしようとした途端に理性がブレーキをかけ、菜乃花は頬をわずかに朱く染めて俯いた。
(何を言おうとしてるの私は。止めておきなさいって。いきなり何だ、変な奴だと思われるって。言うべきはいまじゃないでしょ。そうだよ、いま頼んだら、怪我をさせた負い目に付け込んで我儘を通すことになる。きっとまた機会はあるからそのときに……機会っていつ? 二か月経っても遠くから見てるだけだったんだよ? このままじゃ永遠に進展なんてしないって!)
「何? 俺にできることならなんでもする」
その言葉が、迷う菜乃花の背中を押した。
(天坂くんもこう言ってくれてるわけだし、我儘でもいいじゃない! 千載一遇のチャンスだよ!? 逃してどうする!)
とは思ったものの。
真剣な顔をした千影と目が合った瞬間、たちまち菜乃花の顔は赤くなった。
無理だ。
こんな大真面目な顔をされたら、とても頼めない。
「わ、……やっぱり止めた。ごめん。気にしないで。いま言うのはなんか違う。すみません弱みに付け込んで我儘を通そうとしました。いい人なんてとんでもない、私は卑しい人間です。あああほんと何言おうとしちゃってるんだろ私。すみませんごめんなさい」
通行の邪魔にならないよう、そして通行人に見られないよう、廊下の端にうずくまって左手で顔を押さえ、激しく首を振る。
「何なんだ?」
さっぱりわからないらしく、千影が訝っている。
「言ってよ。園田さん」
園田さん。
彼の声で紡がれた自分の名前に、心拍数が上がる。
これまで言葉を交わしたこともなかった。
ただ遠くから見ていただけだった彼が、自分の目の前にいて、自分の名前を呼んでいる。
「………………~~~」
どうにか頬の熱を下げるべく、左手で顔を扇ぎ、こほんと咳払いを一つ。
意を決して、菜乃花は立ち上がった。
「……と……友達になってもらえませんか!」
(言ったあああ!! ついに言った!!)
「友達?」
突拍子のない言葉に聞こえたのか、千影は面喰っている。
「あ! いえ! 深い意味はなく! ほんとに友達でいいんです! それ以上は求めてません! 天坂くんに二次元の彼女がいるのは知ってるし! 会ったら挨拶したりとか、たまに会話したりとか、そういう関係性で十分なので、ほんと……!」
顔を真っ赤にして左手を振る。
そんな菜乃花の慌てぶりがおかしかったのか、千影は不意に、頬を緩めて。
口の端をちょっとだけ持ち上げて。
「俺で良ければ」
眼鏡の奥の黒い瞳を細め、笑った。
(笑っ……!!!)
初めて見た千影の笑顔は、菜乃花に凄まじい衝撃を与えた。
顔は発火しそうだし、心臓は爆発四散したのではないかと思うほど。
(ぎゃあああああああやばい天坂くんの笑顔やばいいい!!!)
興奮のままに転げ回り、ついでに床を百回ほど拳で叩きたい。
(あああダメだ、廊下を行く生徒の腕を掴んで天坂くんの笑顔が素敵すぎる件について力説したい、世界中の人に叫びたい、この昂る感情をどうすれば!! 友達なんてやっぱり無理だわ好きです!!)
「ええと、じゃあ、いまから私たちは友達ということで。改めてよろしくお願いいたします。A組の園田菜乃花です」
激しく動揺しながら頭を下げる。
頭を下げたのは、どうしようもなくにやける頬を隠すためでもあった。
「G組の天坂千影です」
律義に千影も礼を返してきた。
(知ってます。私、フルネームもばっちり知ってました)
とは、口に出さない。
「何してるんだろあれ」
「さあ」
廊下の端で頭を下げ合う菜乃花たちを見て、通りすがりの女子生徒が不思議そうに言っているが、菜乃花は全く気にしなかった。
(超レアな笑顔も見れたし、『友達』と『なんちゃって教師』の立場まで手に入れてしまった。今日はなんて素晴らしい日なの)
右手首は痛いし、ぶつけた身体の各所もまだジンジンしているけれど、この喜びに比べればどうということはなかった。
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