確実に這い寄る何か



『ボス。まだそわそわなさっていますが。ひょっとしてお手洗いですか?』


「それならまだ救いようはあるんだけどな……」


 スマートフォンから聞こえる秘書プログラムの人工音声に、結城陸斗は遠い目で答える。


 五インチのデバイスを握り締めた少年は、トンネルみたいな空間の端に寄りかかるようにようにして足を進めていた。傍から見れば足に力が入らずに壁を頼りに進んでいるようにも見えるかもしれない。


 だが陸斗にとっては命に関わる保険的な行動なのだった。


『ボス。先ほどから壁際を進んでいらっしゃいますが、何をお考えですか?』


「さっきの訳分からん、その、列車……で良いのか? あれの衝突を免れるために端にいるんだよ。さっきは横に飛べば回避できた。つまりここにいれば即死だけはない。……はずだ」


 最後は超頼りない声で自らに言い聞かせる理系高校生。


 手元のマップを眺める。


 大分進んだはずだが、目的地のテーマパークまでの距離はまだ五キロ以上もあった。自転車でもあれば大した距離ではないが、この暗闇を徒歩で踏破するとなると頭がおかしくなりそうであった。


 そんな事を考えている時に、再びスマホからこんな声があった。


『ボス。再びノイズを感知しました』


「さっきの音と同じか?」


『ええボス』


「距離はどのくらい……」


 しかし、問いかけを最後まで続ける事はできなかった。


 暴風に背中を叩かれたと思ったら、陸斗の真横を巨大な塊が猛スピードで通過して行ったのだ。しかも列車と見紛うような何かは、今度は彼の背後から前に向けて通り過ぎて行く。


 スマホのライトでそちらを照らしつつ、だが一秒後には何事もなかったかのようにいつもの暗闇の空間であった。


「……慣れってのは怖いな。二回目になったらもうほとんど驚かないぞ」


『ノイズを捉えてから不明物体の通過まで、タイムラグは三・五秒。二回とも距離はかなりあったはずです』


「となると、あの不明物体の速度が速いのか」


『カメラから捉えた概算の速度は時速二〇〇キロ以上です。暗闇のため画像が荒過ぎます。やはり詳細な情報を取得するためには、部室に帰って専用の調査機材を持ち寄る必要があるかと』


「しかも今度は後ろから来たよな。トンネルが広いから右側と左側を分けて列車みたいなものが通過している……?」


『仮説は立てられますが、いずれにせよ考察の域を出ません』


 そのセレナの一言で思考を一時停止させた結城陸斗。


 とりあえずトンネルの空間の隅を歩く事によって安全は手に入ったらしい。まずは地上を目指す事を優先した方が得策だろう。


 が。


『ボス。ノイズを再び感知しました』


「面倒臭いよ安全は安全なんだからもう気にせずテーマパークの地下を目指そうよ」


『お待ちください。先ほどのノイズとはやや異なります』


「どういう風に?」


『……解析完了。動画サイトやSNSの動画から最も近い音声を検知しました。いずれも動物の鳴き声の入った動画と音の振れ幅が酷似しています』


「動物? ネズミか何かいるのか?」


『いいえボス。小動物や四足歩行の動物などとは異なり、タカやワシなどの猛禽類と似ています』


「コウモリとか?」


『……ボス。コウモリは哺乳類のコウモリ目に分類されます。鳥類ですらありません。電子工学系ばかりではなく、もう少し他の科目にも興味を示してください。先月の生物のテストなどは思わず目を覆う結果でした』


「今この状況で言う事かそれ? というか、全体的に俺は勉強が苦手……」


 と、唐突に陸斗の声がぶつりと途切れた。


 まるで動画のダウンロードがストップしたみたいに少年の口が停止したのには、もちろん理由がある。ある種、咀嚼して呑み込めない複雑な情報が視界を埋め尽くしたのだ。


 きっかけは、匂いだった。


 鼻につくのは腐敗臭。そして次に嗅ぎ取ったのは、鉄錆臭い匂いとペットショップを一ヶ月丸々放置したような匂い。どれもこれも長く嗅いでみたい匂いではない。だというのに、それら一つ一つが混じり合って、思わず顔をしかめるほどの異臭を生み出していたのだ。


 匂いの源。


 陸斗の歩くトンネル空間の端っこ、その反対側。


 もぞもぞと蠢く影があった。


「セレナ……」


『……これは』


「俺は、地獄の底にでも、迷い込んだってのか……???」


 目の前には凄惨な光景が繰り広げられていた。




 ウロコまみれのぼってりとした体形に、鋭い牙のある三メートルほどの生物の死体。


 そしてその腐敗した遺骸を啄むように群がる、翼を持った一〇〇以上の猛禽類。




「気持ち、悪りい……ッッッ‼」


 圧倒的な弱肉強食の現場。


 胃から競り上がって来る猛烈な吐き気に全力で口をつぐむ陸斗。ぷるぷると震える右手から危うくスマートフォンがこぼれ落ちそうになる。


 その手から五インチのデバイスが離れなかったのは、こんな状況でも人工音声が的確な指示を出してくれたからだろう。


警報アラート。「あれ」に直接フラッシュライトを向けないでください。今は間接視野的に捉えていますが、強烈な光に照らされればこちらに注目され、猛禽類の群れの標的があのウロコまみれの死体からボスにシフトする可能性があります』


「……ッ!?」


 緩めそうになった右手の筋肉に全力で力を込め直す陸斗。


 セレナシステムから『注意コーション』ではなく『警報アラート』が飛んできた時点で、危険度はレアメタルが暴走した時と同様か、それ以上と見るべきなのだ。


「……っ」


 じり、じり、じり、と。靴底を灰色の地面に押し付けながら、結城陸斗はそれでも大きな音を立てないように後退しようとしてしまう。


 だが思い直す。今からほぼ真横にいるあの怪物から距離を取ったとしても、どこにも安全の保障などない。セレナの声も猛禽類の群れの注意を引いてしまうかもしれないので、必要最低限の助言しかないらしい。


 であれば。


(……先に進んだ方が、まだ良い、か……?)


 やはりこの考えにも何ら根拠はない。


 だが一度そう思ってしまえば、不思議と目的地であるテーマパークの方へと足は進んでしまっていた。


 そして一歩踏み出すと、何とか前へと進める。棒立ちのまま、どちらに向かおうかいつまでも迷ってしまう、というような事態だけは避けられた。


「……っ、セレナ」


 そのまま四苦八苦しながら、三〇歩以上は歩いただろうか。


 スマホのライトが届かなくなり、背後のウロコまみれの死体も見えなくなったところで、少年は優秀な秘書プログラムの名前を呼んだ。


「セレナぁ……ほんとにここは日本なのかよお……」


『ボス。情けない声全開ですが、勇気を振り絞っていただいたようで何よりです。あのまま後退してしまっては、最適コースから外れてしまっていました。ここまでのトンネル空間は一本道ですし、どこに迂回路があるのかも分からない現状ですので』


「……ああくそ、頭がおかしくなりそうだ」


 今すぐにでも地面に座り込んで、やたらとうるさい心臓を落ち着かせたいところだったが、停滞するのも恐ろしい。せっかく逃亡できたというのに、背後からあの気味の悪い生物が追い駆けてくる恐怖が脳裏から消えてくれない。


 手や足裏にまで及ぶ気持ちの悪い汗を必死で無視しながら、歩行を速める陸斗。


「セレナ。何だあれ? 何だあの動物? そもそも地下にあんなものがいる事ってあるのか!?」


注意コーション。まだ大きい声は控えてください』


「これでも落ち着いてる方だ! 狂ってるぞここ!」


『ええボス。わたくしも分かっております。地下空間にしてはやや不透明な部分が多過ぎます』


「待て、待て、待ってくれ……」


『オーダーを承認』


 考える時間が欲しいが、どうも歩いていると思考がまとまらない。


 陸斗の場合、何度も部屋の端を往復するよりも、オフィスチェアに座って静かに考える方が性に合っているのかもしれない。


「セレナ。レンズであの動物の姿は捉えられたか?」


『ボス。わずかに捉えられましたが、高解像度にして解析しても全貌は分かりませんでした。やはり近くで撮影するか、特徴的な部分を捉えなければ芳しい結果は得られません』


「……現状であの動物の種類は分かるか?」


『いいえボス。死骸は熊の仲間にも見えましたが、あのようにウロコまみれの動物はヒットしませんでした。一方で、その死骸を啄んでいた猛禽類系の生物はいくつかヒットしました。タカやワシに似ていますが……しかし嘴と翼、爪があれば大抵は猛禽類のシルエットとしては成立します。詳しい種類の判別までは不可能でした』


「そもそも地下に猛禽類がいるのか」


『可能性としては低いです。ここが巨大な動物園であれば話は別かもしれませんが』


「死んでたヤツは二メートルを超えてたぞ」


『縮図分析の解析結果によると三・三メートルです』


「ふざけてる」


『ええボス。モグラにしては大き過ぎます』


 猛烈な吐き気を何とかやり過ごすと、本気で出口を求め始める結城陸斗。


 もはや地下から出たいというよりも、あんな弱肉強食の生物が闊歩する場所から一刻も早く安住の地へ戻りたい、という心理に近かった。


 ゆったりとした徒歩から、徐々に小走りになってトンネルみたいな暗闇を移動していく。


「はあっ、はあっ!」


『ボス。インドア派に全力疾走で残り三キロの踏破は難しいと思われます。ペースを考えてください』


「うるさいっ、言ってる場合か!」


 どこまでも足音が響いていく。


 そう、地下の真っ暗闇の中を、どこまでも。




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