第5話

9月9日 あめ


朝から激しい雨がざあざあと降り荒ぶっている。誠彦は嫌な顔をして溜息を吐いた。薬を飲んだから今日は大丈夫だ。そう鏡の前の自分に喝を入れて会社へ向かう。

駅までは何事もなくスムーズに向かえた。なるべくヤツの気配を感じぬようにマスクと耳栓の対策は怠らなかった。会社の最寄り駅に着いて改札を出た時、こちらへ向かって走り抜けてきた男性と盛大にぶつかってしまった。やってしまった。傘や耳栓が地面に跳ね落ちる。途端に雨の音が鼓膜を、脳内を叩きつける感覚が襲う。立ち眩みが始まり、膝から崩れ落ちて、全身が冷たい雨に打ち付けられると、まるで磔にでもされたように硬直し、額から汗がにじみ出るのだった。

立て、立つんだ。馬鹿。何も考えるな。呼吸を整えろ。そう言い聞かせると、目の前の道路から耳障りなクラクションが響き渡った。視線の先には血があった。野良猫が車に轢かれていた。その光景を目にすると、立て直そうとしていた精神はあっけなく崩壊した。

……ゆり!!21歳の誠彦は叫んだ。大学の帰り、傘を差しながら並んで歩いていた恋人にとってその日は最後の雨となった。記憶の最後の方、ゆりは笑顔で手を振って帰っていった。それなのに、ゆりはその日。雨の中自宅のマンションから飛び降りた。いつもある連絡が来ない事に不安に思った誠彦が、ゆりの家へと向かったタイミングだった。目の前で恋人の体が打ち付けられる音を聞いた。そこには、血にまみれて、誰か分からなくなったゆりの姿があった。誠彦は発狂した。ぐちゃぐちゃになったゆりの体を抱きしめて譫言のように呟いた。どうして、どうして、どうして……。

ゆりは息を引き取った。遺書には崩れた文字でありがとう、ごめんねと書かれていた。

それ以来、雨の日になると、悪夢のような一夜を思い出して全身が拒否反応を示すようになった。泥に混じった血の匂い、地面に打ち付けられる音、ゆりの最後の顔。絶望が腹の奥から込み上げて喉から飛び出し頭を鷲掴みして、濡れた地面に引きずり込まれてしまう。


視界がちかちかと白黒し始める。正常に頭を働かせようと何も考えないに努めた。さっき轢いた加害者の車は何事も無かったように信号を渡って通り過ぎていく。かわいそうと呟きながら人々は傘を揺らして気まぐれに歩いていた。とある親切な誰かが背中をさすって「大丈夫ですか?」と柔らかい声を投げてきた。その声に、思い出したように薬を飲まなくてはもと、鞄の中に手を突っ込んだ。しかし薬を探している最中、意識が遠のいてそのまま雨の中を墜ちていった。

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