Ep.4 この世界は改変した
子供、僕ですらウキウキしてしまう。でもよくよく考えてみると悪趣味の塊でもあるもの。
覗き穴だった。指が五本は突っ込めそうなちょっと大きな穴。そこから二〇一号室にもあるふすまの前ですやすやと眠っていた。
鎌切さんに迷惑を掛けていなかったようで心底安心する。それからこそこそ部長に話してみせた。
「よく知ってましたね」
「と言うか、オレが開けたんだがな」
「えっ……部長のおばあちゃんは知ってるんですか?」
「知ってんのは、八千代さんと亀梨さんだけだな……。ちょくちょく亀梨さんは覗きにくるぜ。鎌切さんに気があるみたいでな」
「何で、他の人が知っておばあちゃんが知らないの?」
「いやぁ、ばっちゃんにバレると怖いけど、話のタネには使いたかったからさ」
「あっ……そう……どれだけ話のタネが大事なんですか……」
まぁ、本人がその秘密を守り抜けているからいいかと思うしかなかった。再度、真面目に掃除を始めようとふすまの穴から目を離す。部長はまだ鎌切さんの部屋を覗いている。
たまに変な声を上げているのだが、何を期待しているのだろうか。
「うぉ……寝返り打ったぞ。うなされてるみたいだ」
「そんなに人ん
「たまに亀梨さんが、ここでこっそり着替えてるところも見れちまうし」
「……早く掃除に戻りましょう? でないと、部長が置いた箒で取返しのつかないことをしますよ」
僕は箒を持って、部長の至る穴に差し込まんとの意気で空を何回か突いてみせた。その殺気を感じ取ってくれた部長はやっと僕の方を見て、「分かったよ」と言い始めた。
彼のやる気が出てきたところだった。
それなのに、「みんなぁ! 外に出てくれ!」と知らない男の声がした。何だなんだと僕と部長は部屋の外に出ると、庭にアパートの住民である二〇三号室の亀梨さん、一〇三号室の八千代さん、管理人かつ一〇五号室に住む部長の祖母、そして知影探偵が集まっていた。
もう一人二重顎の若い男が、アパートの二階の廊下から見下ろしている僕達を見て、手招きをする。
「あっ、君達も来てくれ! ちょっと大変なことが起きてるんだ!」
「はっ、はい!」
「おう!」
僕は覚束ない様子で返答し、部長は分かりきったような言葉で反応した。外の階段を降りる間に状況の説明を部長に求めた。
「部長? あの人は一体?」
「二〇五号室の
「原因?」
「あの人はゴキブリを飼っているんだが、ちょくちょく逃げ出すんだよ……」
つまり僕達は今、ゴキブリ探しに駆り出されている、と? しかし、考えてみれば、それも大切な事だった。確かに住民皆に理解してもらわないと逃げたゴキブリをうっかり殺してしまう可能性もある。
それに時にはこんな住民で大騒ぎするイベントがあってもいいのかもしれない。今は隣人同士で引っ越しの挨拶すらしないという冷たい風潮もある位だし。
「今日の午前中に飼ってきたゴキブリが庭で逃げちゃってね……ごめん。掃除で忙しいところなんだけど、すっごい大事な奴なんだ! お願いだ! 君達も手伝ってくれ!」
瓜木さんの頼みに頷いた。
知影探偵はゴミ捨て場の前に立って震えているが、それ以外の住民全員はやる気満々だし。ここで断れる勇気もない。
ぼさぼさ頭の八千代さんも腕を振って、草の中を探している。亀梨さんは、部長の祖母と共に花壇の中を捜索中。
「おばあちゃん……ゴキブリが苦手なのってミントの匂いだっけ?」
「生憎ミントは植えてないからね。雑食のゴキブリなら、花とかにくっついて食べてたりしないかねぇ……」
瓜木さんは一階の廊下を探している。僕達はそれ以外でゴキブリが行きそうな場所を考えて、ちらっとゴミ捨て場の網がある場所を見た。クツワムシらしきものが動いている。
まさか、それではないだろうし、と考えているところで、瓜木さんがこちらの方を指さして、叫んだ。
「あっ、ゴキブリ!? ゴミ捨て場のところに! 皆、アイツを踏んづけないでくれよ!」
僕が見落としをしていたのか。ゴミ捨て場の前にいた知影探偵は真っ青な顔をして、悲鳴を上げた。
「いやぁああああああああ! 早く取って取って取って!」
そのままゴミ捨て場からアパートの庭の外まで出て、歯をギシギシ言わせている。本当に恐怖だったのだろう。近くにゴキブリがいると言う事実が。
八千代さんも疑問符を浮かべて、彼女の恐怖を理解できていないようだが。
瓜木さんはそのまま虫かごを持って、ゴミ捨て場に近づいていく。ひょいっと、そのクツワムシを入れてみせる。
あれっと僕は瓜木さんに指摘をしてしまった。
「何で……それってクツワムシか何かじゃあ……」
「いや、バナナだよ」
「へっ……」
よく分からない返答をされて理解できないまま石になる僕。皆が胸を降ろして安堵している中、僕だけが何だか納得できない状況に陥っていた。
瓜木さんの「ありがとうございます! 皆さん。後で遠出してきたお土産がありますので、受け取ってください」と虫かごの中に入れたクツワムシらしきものを見ながら、そう語っていた。
「ねえ、部長……」
「何だ?」
「クツワムシとゴキブリって同種なんでしょうか?」
「何言ってんだ? 余計なことで時間を取っちまったし。掃除に戻るぞ」
「……部長が掃除にやる気を出している……。この世界は変わったんだ……何ということだろう。ゴキブリを探している間に……嘘だ」
魔法のようなことにはまるっきり耐性がない僕。目の前の不思議には頭がショートしてしまいそうな感じ。
僕は庭でお土産と言われるバナナのお菓子を受け取ると、すぐさま封を破って口に入れる。ほんわりとしたバナナの甘さが心に溜まった疲れを少しだけ解してくれた。
ついでに昼飯としておにぎりもいただき、腹の調子も復活させる。
二〇二号室に戻った後、掃除を続けていた。一部屋を完全に綺麗にしないうちに日が傾いていく。
四時になった位のこと。
「叩けば、幾らでも
「そうだなぁ……下の部屋に掃除機かけて、今日は終わりにしてもらおっか」
そんなことを部長と話していた時だった。誰かが扉を叩いて、叫んでいる。
「おおい! 鎌切くん! 起きて!」
僕ははたきを持ちながら、そっと二〇二号室から外へと顔を出す。亀梨さんが二〇一号室の扉を叩いているのだ。
「亀梨さん、どうしたんです? 夕飯には早い気もしますが……」
「いや、もう準備しないと。美味しい店は五時に行かないと、ダメだし……寝入っちゃってるのかなぁ? っと……」
彼女がスマートフォンを操作して、鎌切さんのところへ電話したらしい。しかし、鳴る場所は違った。
下から、顔を出した部長の祖母が青いスマートフォンを掲げていた。
「鎌切くん……うちの玄関にスマホ忘れてちゃってるよ……」
「あっちゃあ」
亀梨さんは額に手を当てて残念と口にする。と言うが、家入電話でのコールはダメなのかと僕が提案したところ、「ああっ!」と叫ぶ。
「忘れてたんですか」
「そうね……あれ……でも、出ないわ……」
二〇二の方にも音が伝わってくる。たぶん、あの覗き穴から出ているのだろう。耳がざわつき、アパートまで揺れそうな騒がしい音が出ているのに、寝ていられるなんて……。
瓜木さんも「うちの夜行性の奴等が起きちゃうでしょ」と文句を言いに来て。彼と話していたらしい八千代さんも二〇一の前にやってくる。
その中で二〇二号室でまたもや「うわぁ」と驚く声がする。
「部長……?」
「いや、覗き穴から確かめようとしたら、いきなりアブみたいなのが出てきてな」
「そう……で、どうなんです? 起きてるんです?」
「ちょっと待て……えっ」
部長はふすまの奥に入り、二〇一の様子を確かめる。と同時に、嫌そうな声を口にした。
「どうしたんです?」
部長は何も言わずに飛び出していく。僕も覗き穴を見ると、彼とたぶん同じ感情が芽生えていた。
ヤバい。
荒れた布団。胸を抑えて動かない彼。その手前側に一匹の蜂が横たわっていた。
ヤバい。もしかして、この状況は……!
僕は飛んで戻ってきた部長に一つの命令をされた。
「鍵は鎌切さんしか持ってないみたいだ……だから、ドアをぶち破るぞ!」
「あっ、はい!」
すぐさま二〇二を飛び出し、二〇一の扉に僕と部長は体当たり。それでもうまくいかないと、八千代さんと瓜木さんが手伝って。
もう一度、僕と部長が思いきり、扉に体当たりを繰り出した。
チェーンと鍵がぶちりと壊れ、扉が開く。すぐさま僕達は鎌切さんのところに向かう。
鎌切さんは息をしていなかった。
僕は胸を押して、何度か人工呼吸を試みる。その間に瓜木さんはAEDを探してきたり、スマートフォンを持っている亀梨さんが救急車を呼んだりと必死に努力した。
部長の祖母は共にサイレン鳴らす救急車に乗って。
努力はした。できる限りのことはしたのだが。
その甲斐はなく、鎌切さんの死亡が病院で確認された。
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