第10話 そして部屋の扉は開く
「いってらっしゃい、わたし。リリス、この子をお願いね」
この分身――便宜上、《スワンプマン》と呼ぶことにしましょう――は、誰もが一度は求めるであろう「自分の代わり」的存在です。
昔の大魔術師が、雷に打たれたときに思いついた魔術らしいのですが、現在では禁術に分類されています。誰も教えてくれないので、普通に魔術を学んでいても知ることはないものです。
本体と思考をリンクさせ、離れた場所から操ることもできますし、自律行動させることもできます。今はどうやらお師匠さまが直接動かしているみたいです。
柱の陰から姿を現すと、王子様は律儀に(?)ソファに座って、お師匠さまの登場を待っていました。鼻の下はでろんでろんでしたが。
「お! その子が噂の?」
「ええ、多分。お師匠さま、この方がお話があるそうで」
スワンプマンは、伏せていた顔を上げました。
寸分たがわぬお師匠さまの美貌がそこにはありました。ああ、なんと可愛らしい。
「……どちら様?」
外向けのその声は、普段私に向けて使う声よりも数段高く、そして可憐で、銀白色の大聖堂によく響く透き通るような声でした。
王子様のほうも、予想だにしない美少女が出てきたせいか(どんなもんですか!)どぎまぎして声も出ないといった様子です。
「……あ……えと……?」
「どちら様ですか、とお聞きしているんですけど」
「ああ……俺はジーク。……一応、この国の第一王子をやらせてもらってる……」
「そうですか。お話とはなんですか?」
「いや……その。なんつーのかな、俺……ここまで話しづらい女の子と会ったのは初めてだ」
「……?」
スワンプマンは、くい、と小首をかしげました。
「俺は……まあ、顔のいい女の子とはいくらでも話してきたつもりだ。国中って言ったら言い過ぎだけど、大きい街の女の子とは顔のいい順に話してきた」
欲望の塊みたいな人ですね。その情報網の広さには感心します。
「まあ、どれも側近に止められてプロポーズまでは至らなかった。しかし、俺はこの図書館に美少女がいるという情報を聞いた時震えたぜ。側近はここまで入ってこられない。止められることもない。安心してプロポーズしようと。俺には一応生まれたときからの許嫁がいるが、そんな親の決めた結婚なんてゴメンだ。俺は俺の好きな女と結婚したい。だからここまできた……だってのに」
王子様は一度言葉を切り、心底悔しそうな顔をして言います。
「どうして君は、そんなに俺の母さんと雰囲気が似てるんだ?」
「……えぇ……?」
「君と話してるとどうにも母さんを思い出しちまうんだ……すげぇ、たしかに顔はすごくいい。今まで会ったどんな女の子よりも顔がいい。だが雰囲気が母さんなんだ……」
「……」
気持ち悪、とつい声に出しそうになってしまいました。ええ、もちろん出していませんとも。
お師匠さまはまだ十五歳、そんな彼女に母性を感じるなんて……もしかして、ヤバい性癖の持ち主なのかもしれません。
スワンプマンはといえば、まるで人の死体を貪る食人鬼を見たかのような、信じられないほどドン引きした表情をして、
「お断りします。一も二もなく。……あと、ちょっと失礼」
「は?」
「《
――いきなり、王子様のお腹に手を突っ込んだのでした。
ずぽ、と。小さな子どもがどろに手を突っ込むような感じで。
「えぇえええええええええええええええ!? おおおお俺の腹ッ、うあ? なにこれっすげぇゾワゾワ来る、なに、なにしてんの?」
「暴れないでください」
「無茶言うなってこっちは腹に手突っ込まれてんだぞひぃん!? あ、あぁ……なんだこの感覚――!? おっ、あっ……?」
無様ですね……さっきまでの欲望全開面食い王子様の面影はどこにもありません。
ようやくスワンプマンが腕を引き抜いたときには、王子様はびくびく痙攣しながら床に這いつくばっていました。
スワンプマンの手には、黄金色に輝く小さな鍵が。
お師匠さまが柱の陰から出てきて、その鍵を受け取ります。同時に、スワンプマンはどろりと溶けて大理石の一部に戻っていきました。
「はい、一件落着と。がっちゃん」
お師匠さまがどこからともなく現れた鍵穴にその鍵を差し込むと、そこには私が入ってきたときと同じ魔法陣がありました。――出口です。
ふと気がついて、懐中時計を見てみます。
「お師匠さま、目は覚めましたか?」
「この痙攣してるののおかげでね。……あーきもちわる、男のお腹なんて漁る羽目になるなんてね」
「お先に外に出ていてください。私はこの人を王城まで送ります」
「そ。じゃあ、よろしく」
そう言って、お師匠さまは魔法陣から外に出ていきました。
「ジークさん。生きてます?」
「おっふ……ああ……なあ、今なんか二人いなかったか、同じ顔の子が」
「気の所為でしょう」
「そうか……にしてもすごかった……クセになっちゃったかもしれん」
「それ、口外しないほうがいいですよ」
王子様は女の子に腹の中をまさぐられるのがすき、なんて、私は知りたくなかったですし。
***
王子様を図書館の前まで見送り、やけに豪勢な馬車で去っていくのを見届けて、ようやく私は見慣れた図書館の担当区画に戻ってきました。
古紙とほんの少しの
「うーん……濃密すぎる時間でした。色んな意味で」
まあ、平穏無事な生活の、いい刺激になったんじゃないでしょうか。
さて、仕事の始まりです。
『図書館が開館します――職員のみなさんは、各自持ち場についてください』
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