慧眼の士 ――病院には次々に人が尋ねて来た

「容体が変わればすぐに連絡する。俺を信じて今日は帰ってくれ」

「先生、明日も朝から公務があります」

 毬恵さんも帰宅を促す。そうだ、東さんは現職の市長なのだ。

「東さん、ここは慎二先生に任せて帰りましょう。居ても慎二先生の邪魔になる。祈るだけなら自宅でもできますよ」

 私の言葉で、ようやく東さんは帰る気になって立ち上がった。我々は連れ立って病院の玄関前のタクシー乗り場に向かった。ちょうど二台停まっていたが、東さんが私を呼び止めた。


「柊さん、方向は同じだ。一緒に帰りましょう」

 私も少し人と話したい気がしたので、一緒に帰ることにした。タクシーに乗り込むと下条先生に連絡してないことに気づき、メールを打った。

――今日は安静にということなので、帰ります。何か容体に変化が有れば秋永先生が知らせてくれるので連絡します。


「柊さん、私と慎二は元気が有り余るような子供だったんですよ。勉強もそれなりにできたけど、やっぱり悪さの方が目についてね。学校で何かあればすぐ疑われた。実際に犯人であることも多かったんですがね」

 東さんは昔を懐かしむような目をしてフフフと笑った。

「でも四年生のときに学校の花壇が壊されて、花もだいぶダメになる事件があったんです。すぐに私と慎二が疑われた。間の悪いことに私と慎二はいたずらの罰で、そのとき漢字の書き取りをさせられて学校にいた」

「疑われたんですか?」

「疑われました。自分たちではないとはっきり言いましたが、自分たちのせいにされても仕方ないなとも思ってました。よくお袋から日頃の行いが悪いから、悪いことを全部自分のせいにされるんだ、なんて言われてましたしね。でもその時担任だった吉原先生は違った。証拠もないのに人を疑うことは、それ自体が罪なんだと。ましてや、やってないと言ってるのに、なぜその言葉を信じないのかとね。吉原先生はクラスメイトや他の先生に、この子たちは元気が有り余って悪さをすることはあるけど、自分のやったことで嘘はつかないと言ってくれました」


「それは嬉しい言葉ですね」

「嬉しかった。単純に嬉しかった。慎二に聞いたら、あいつも嬉しかったと言ってました。私なんか母親にまでレッテル貼られていたのに、吉原先生だけは信じてくれた」

「いい先生ですね」

「まあ、よくある話だと思うんですけどね。滅多にないじゃあ困ります。でも言われた本人は心に残るんです。その時私は心が決まりました。嘘をつかない人間に成ろうと。面白いことに政治の世界ってのは真っ黒です。嘘があちこちで横行している。ある大物政治家は、清濁併せ呑むが信条だなんて平気で言いますけどね。フフフ」

 何かを思い出したのか東さんは薄ら笑いをした。


「でも私は嘘をつかないと決心したから、政治家になってどんな局面に立っても嘘をつかないでいれる。吉原先生のおかげです」

 私は三一世紀のAI政治を思い出した。

「そうですよね。政治家が嘘をつかなかったら、みんな平和に暮らせるし、政治家を利用しようとする人たちもいなくなります」

「でも予期せぬ天災なんかが起こったとき、嘘をつく政治家はうまく立ち回り政権を存続します。でも先生のような方だと、正直に備えが足りなかったと言って、辞任してしまいそうな気がします」

 毬恵さんは秘書としての心配を口にした。


「その時は私の意志を継いで誰かが立てばいい。それに有権者の信頼がある限りは、責任をとって辞任などしないよ」

「でも運で左右されるのは理不尽だと思います」

「面白い考え方があるんだ。二人の指導者がいたとして、一人はすごく運が良くて、その人がトップに立てば理不尽な不幸はない。もう一人はあまり運が良くなくて、時々理不尽な不幸が起きる。君ならどっちがいい」

「……」

「運がいい方がいいに決まってる。みんなの生活を預かってるんだ。政治家に運は大事な要素だよ」


 面白い考え方だと思った。ただ、他の候補者が皆高潔な人格を持っていればの話だが。どうも政治家に限っては、人格的にダメな人の方が偉く成りそうだ。大雑把に話を纏める東さんと、生真面目に心配する毬恵さん、二人はホントにいいコンビだ。


 私は思わずフフフと声に出して笑ってしまった。

「何かおかしいですか」

 毬恵さんから叱責が飛んだ。

「いえ、何でもないです」

 しまったと思って、反射的に謝った。

「まあ、そんなにピリピリするなよ。柊さんが怖がってるよ。話したかったのは政治家像ではないんだ。私の信念を作ってくれた吉原先生の話なんだ」

 再びタクシーの中はシーンとなった。今できることは、吉原先生の回復を祈ることだけだった。


 次の日吉原さんの病室に行くと、下条先生ともう一人、六十才ぐらいの見知らぬ男性が来ていた。

「おはようございます」

 吉原さんは眠っているので、小さな声で私があいさつすると、二人が振り向いた。

「三上さん、昨日はありがとうございました。おかげで少し冷静になれました」

「下条先生、今日学校は?」

「休んじゃいました。でも子供たちには心配ないと、昨日ちゃんと言いました。先生にとって大事な人だから、明日は病院に行くと」

「そちらの方は?」

「ああ、ご紹介します。八年前までうちで副校長をされていた藤山正信とうやままさのぶ先生です。藤山先生は吉原先生の教え子であり、同僚でもあったんです」

「藤山です。昨日は吉原先生を助けていただいてありがとうございます。それから下条先生、私はもう先生ではないよ。辞めても先生と呼べるのは吉原さんだけだ」

「藤山先生にとって吉原先生が永遠に先生であるように、私にとっては藤山先生は永遠に先生です」

「はは、これは一本取られたな」

 笑顔を見せながら、藤山さんの目は笑ってなかった。


「慎二君は手術を躊躇してるんですか?」

 藤山さんはバリトンのいい声だった。

「はい、吉原さんの体力が心配みたいです」

「そうなんですか。じゃあ手術しないとどうなるんですか? 命の危険とかないわけじゃないんでしょう。あいつはいざという時、優しさから優柔不断になるからな」

「今のところ手術の成功率より生存確率の方が高いようです」

「うーん」


 藤山さんはまるで三一世紀の人間のようだった。感情制御がちゃんとできて、落胆も激高もしない。しかし藤山さんは死を知っている。死というものを十分に理解して、それに正対できているのはすごいと思った。

 死という概念が分かってから、私は何気に恐怖と闘っていた。自分の死にではない。この世界に来て知り合った慎蔵先生や満江さん、そして慎二先生一家、せっかく親しくなった人たちが、いつ死を迎えていなくなるか、その恐怖に怯えているのだ。


 しばらく考えてから、藤山さんは静かに口を開いた。

「まずは吉原先生と話してみましょう。申し訳ないですが、吉原先生が目覚めたら少しばかり二人にしていただけますか」

 藤山さんの毅然とした態度は、私と下条先生に有無を言わせない。

「昨日、東さんから吉原先生の話を聞いたんです。生徒を信じるいい先生だったんですね」

「吉原先生は我々とは違う教師としての誇りを持ってました」

「どのように違うのですか?」

 私だけじゃなく下条先生もうまくイメージできないようだ。

「ふふ、漠然としてますか?」

 藤山さんは常に落ち着いている。私たちの表情を観察しながら、説明内容を取捨選択してるかのようだ。


「吉原先生の誇りは他人ではなく、あくまでも自分に対しての誇りです。だからごまかしが効かない。ぶれないんです」

「自分に対する厳しさみたいなものですか?」

「そうですね。それは教師に限りませんが、私は教師は特に必要だと思っています。なぜなら、未熟な者を導く仕事だからです。自分に厳しくない者にそれはできない」

――教師だって人間だ、なんて言ってはいけないんだな。

 私はこの猛烈な厳しさになぜか惹かれた。


「私はそれを吉原先生に学びました。だから先生には今もそうあって欲しいし、慎二君にもそれを伝えたいと思います」

 そんな話をしているうちに吉原先生の目が覚めた。私と下条先生は約束通り病室を出て、二人きりにした。

 下条先生は無言だ。きっと今藤山さんと吉原先生が何を話しているのか考えて、その重大さを思うと言葉が出ないのだろう。

 藤山さんが病室を出てくるまでおよそ三十分間、我々は重圧に耐えながら待った。

 藤山さんは思ったよりもさっぱりとした顔をしていたが、目だけは先ほどの何倍も厳しさが籠っているように見えた。


「慎二君はまだ病院にいるのかな」

「はい、帰るときは一緒にと言ってあります」

「分かった。では医局に行こう」

 三人で歩き出すと、ちょうど面会に来た東さんと毬恵さんに出会った。

「藤山先生じゃないですか、お久しぶりです」

 東さんは懐かしそうな顔で挨拶をした。

「丈晶君か、今忙しいんじゃないですか?」

「吉原先生は私にとっても大事な人ですから。ところで三人揃ってどこに行こうとしてるのですか? 帰るようには見えないが」

「慎二君のところに大事な話をしに行くんです」

 藤山先生の言葉に東さんはハッとして、まじめな顔に変わった。


「もしかして手術の話ですか?」

「そうです」

「それはちょうどいい。私も同席させてもらえますか」

「もちろん構いません。では一緒に行きましょう」

 総勢五人で医局に向かって歩いていると、ナースステーションに戻ろうとする斎藤さんに出会った。

「どうしたんですか、皆さんお揃いで」

 さすがに五人もの人間が、医局に向かって歩いていくのを見て、尋常ではない雰囲気を感じたようだ。

「慎二先生は医局にいらっしゃいますか?」

 私は穏やかに聞こえるように声のトーンを明るくして訊いた。


「はい、今日は当直ではないんですが、考え事があるみたいでまだ残っています」

「そうですか、ありがとうございます」

 私がお礼を言って頭を下げると、藤山さんがみんなに言った。

「では皆さん、参りましょう」

「ちょっと待ってください。皆さんでいらっしゃるのですか?」

 斎藤さんは細い身体に似合わない強い口調で訊いた。

「我々は大事な話を慎二君にするために一緒に行きます。話す内容は特に示し合わせてはいません。だけどみんなで話し合わなければならないと思ったから全員で行くんです」

 そう答えた藤山さんの目を、斎藤さんはじっと見た。


「分かりました。それでは私も行きます。病院側の人間が一人は立ち会った方がいいと思います」

 勘のいい斎藤さんは藤山さんの静かさの裏に秘めた強固な気持ちに気づき、止めても無駄だと悟ったらしい。

「では一緒に来てください」。

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