慧眼の士 ――手術を躊躇う慎二を説得する藤山、その手に握られていたものは
ついに総勢六名の集団が医局に向かうことになった。藤山さんの言う通り、何の打ち合わせもしていないが、誰もがここに立ち会うべきだという強い意志を持っている。全員で行くのが正解だと、私も思った。
ところが慎二先生は看護師の斎藤さんまで一緒に成って、総勢六名の人間から話があると言われて、面食らってしまっていた。
「どうしたんですか、皆さん揃って、斎藤君迄……」
「藤山さんが慎二に話があるそうだ。そして我々もその話を聞かなければならないと思っている」
東さんが必然だとばかりに強い口調で言った。
「丈晶は何の話か知っているのか?」
慎二先生は少しばかりかしこまりながら訊いた。
「私は今来たばかりだ。誰とも何も話してない。ただみんな胸に思いを抱えてこの場に来た。お前は話を聞くべきだ」
東さんがそう言い切ると、慎二先生は何か察したのか、フゥーと息を吐き出してこちらへ向き直った。
「分かりました。まずどなたから話しますか?」
「それでは、私から話してもいいですか?」
藤山さんが手を上げ、全員が頷く。
「話というのは吉原先生の手術のことです」
慎二先生は予期していたのか何も言わない。
「慎二君は今の吉原先生の体力では手術は難しいと言って、躊躇していると聞きました」
慎二先生は無言で頷く。
「私は一刻も早く手術をして欲しいと望んでいます。時間が経つほど危険が増して手術ができなくなると、伺いましたから」
藤山さんの声はあくまでも冷静で落ち着いていて、そして力強かった。
慎二先生はしばらく無言のまま考えていた。
誰も答えを急かさず、同じように無言で待った。
慎二先生は口を開くまで、十分ほど要した。
「今のところ手術をした場合のリスクと、手術しないでいるリスクは手術をした方が高い」
「でも放っとけば治るものではないんでしょう。慎二君の言うリスクは死亡するリスクでしょう。例え生きられたとしても、ずっと病室暮らしでは意味がない。」
藤山さんの言葉に慎二先生は反論しなかった。だがイエスとも言わなかった。
「慎二君、あなたは吉原先生に身内がいないことが、プレッシャーになってるのではないですか? 身内がいないから先生自身が手術の諾否を決めなければいけない。それはすごく辛いことだ。優しいあなたはそう考えて迷ってしまったのではないですか?」
慎二先生は黙って藤山先生の顔を見つめた。その表情にはかなり疲れが滲み出ていた。
「もう、大丈夫です。吉原先生には身内がいます」
「えっ」
その場の全員が耳を疑った。
「藤山先生、それは誰ですか?」
慎二先生が自分を落ち着かせるように低い声で訊いた。
「私です」
「藤山先生?」
慎二先生は腑に落ちない顔で聞き直した。
「正確にはもう少ししたら身内に成ります。先ほど吉原先生に結婚を申し込んで、承諾してもらいました。だから今は婚約者です」
藤山先生の顔には少し照れが浮かんでいる。
「結婚って……藤山先生は吉原先生と十五才ぐらい違いますよね」
あの東さんが動揺していた。
「ええ、そうですね。ちょうど十五才違いですか。今はやりの年の差婚ですよ。こんな年になったら年の差なんて関係ないですけどね」
「吉原先生がOKしたんですか?」
訊いた後で、下条先生は思わず、訊いてしまったという顔をした。
「これを見てください」
藤山さんは吉原先生のサインが入った婚姻届を拡げて見せた。
「これを今日の帰りに市役所に提出してきます」
慎二先生は婚姻届を何も言わずじっと見ていた。そして顔を上げて訊いた。
「藤山先生、まさか私が決断できないから、これを?」
藤山さんは苦笑いをした後で言った。
「まだ話さなければいけませんかね。ここまでくれば仕方ないですか。私は十才で初めて吉原先生に出会ったときから、ずっと恋に落ちているんです。それは大学を卒業して教師になってからも、ずっと続いています。ただ同じ教師の道を選びましたから、この仕事をまっとうしようと、彼女への告白は封印しました。そのぐらい私たちにとって、職場は神聖なものでした。でももうお互いに教師ではない。それでも今更という思いもあって触れずにいましたが、今回のことで決心がつきました」
全員が呆気にとられる中、慎二先生が弱々しく訊いた。
「それで藤山さんは手術を望まれるのですか?」
「私は、吉原先生と話し合いました。彼女はずっと病室で生きていくのを、良しとはしなかった。その気持ちを尊重してお願いします。慎二君手術をしてください」
藤山さんは慎二先生に深々と頭を下げた。
「先生、こうなったらやるしかないじゃないですか」
慎二先生側だったはずの斎藤さんが手術を促してきた。
「慎二、腹をくくれ、お前はもうやるしかない」
全員がてんでにやれやれと慎二先生にけしかけた。仕掛け人の藤山さんはなぜか黙って窓の外の富士山を見ていた。
「分かった、やる。術式は腹腔鏡だ。俺が自分の手で病魔を絶つ」
慎二先生もさすがに腹を括ったようだ。藤山さんが右手を差し出す。その手を慎二先生は力強く握った。
手術をする日は明日の午後に決まり、下条先生は何かを思いついて、急いで学校に戻って行った。藤山さんは婚姻届を出すために市役所に向かい、東さんと毬恵さんは選挙に備えるために戻る。
帰り際に毬恵さんが、私の傍に近づいて来た。
「柊一さんは不思議な人ですね。あなたの周りの人たちは、普段ならしない決断を自然にしている。あなたにはきっと何かがあるのね」
そう言って、私を不思議そうに見た後で笑顔になった。笑った毬恵さんはとても優しい顔だった。普段は無表情が多いので、珍しいなと思いながらその後ろ姿を目で追った。
「三上さん、柴田さんと親しいんですか?」
振り向くと斎藤さんの顔は少し強張っていた。
「いえ、そんな特に親しいってことはないですよ」
事実テキパキと指示されることが圧倒的に多い。正直に答えたのに、斎藤さんは疑わしいという目で私を見た。
「いけない、手術の準備をしないと」
斎藤さんはわざとらしくそう言って、立ち去って行った。
私は会話の趣旨が理解できないで、呆然としたまま取り残されたが、気を取り直して吉原先生の病室に向かった。
吉原先生はじっと窓の外を見ていた。個室病棟は北向きの医局と違って、南向きになるため富士山は見えないが、富士沢市の街並みを見下ろすことができる。
「お加減はいかがですか?」
私が声をかけると、吉原先生はこちらを向いてにっこりと笑った。
「とてもいいわ。今日にでも手術ができるくらい」
その声は上品で柔らかかった。
「すごい勇気です。尊敬します」
「あら、そんなことないわ。正直に言うと手術は怖かったの。でも今朝藤山さんの申し出があって勇気が出たわ。不思議なものね。これから一緒に人生を生きてくれる人が現れると、元気になって自分の足で一緒に歩きたいと、思うものなのね」
その言葉を聞いて、どうしても質問したくなった。
「藤山さんの気持ちは気づいてましたか?」
「全然気づかなかったと言ったら嘘になるわ。でも年齢差もあったし、第一お互いこの年になって、結婚みたいな形を作るとは思わないじゃない」
「そうですよね。驚きました。婚姻届迄用意して来るとは……」
「フフフ、あの人は昔からそういう手際はいいのよ。そう、子供の時から……」
吉原先生はそんな昔のことを思い出すように、再び窓の外に目を向けた。
「この窓の外の街並みもずいぶん変わったけど、残っているものもたくさんある。私はできれば、もう少しこの街の子供たちと一緒にいたい」
私は言葉が出なかった。私は吉原先生よりずっと長く生きているが、人との関りとなるとまったく経験が及ばない。吉原先生のように、人とのつながりが生きる力になるなど、想像がつかなかった。
「あなたって面白い人ね。普通は他人の死に直面すると、いずれ来る自分の死を連想して、不安になったり悲しくなったりするものだけど、あなたにはそれがまったく感じられない。そうかといって心が冷たいわけじゃない」
「鈍いんですよ」
そう言って、笑ってごまかした。他の人もこの老婦人と同じように感じているかもしれないと、心配になった。
「責めてるわけではないのよ。そうね、私は子供たちと接する機会が多いでしょう。子供たちもあなたみたいな感覚なの。まだ人の死をよく知らないから、お別れという感覚で死を捉えようとする。死ぬ人が可哀そうじゃなくて、会えなくなって自分が寂しいと思うの。あなたは子供たちと同じような感じがして、私は好きよ」
「ありがとうございます」
礼は言ったが、複雑な気持ちだった。
しばらくすると藤山さんが婚姻届を出して戻って来た。せっかくの二人の時間を邪魔するのは無粋な気がして、病室を後にした。
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