慧眼の士 ――教育現場を知ろうと木乃美の学校を再び訪れた私が出会ったのは

 選挙告示日を十日後に控え、東さんの事務所は大忙しだった。東さんは現職の市長でもあり、公務に忙殺されるので、そのしわ寄せは政策秘書と選挙参謀を兼ねる毬恵さんに集中し、働く姿には鬼気迫るものがあった。


 私は公式に東陣営の一員として、現在の富士沢市の現状や東市政の目指す方向について、アニメなどのコンテンツを作っては配信していた。

 今日は、教育施策を考える上で、現場に赴いて内情を知った方が良いと言う東さんの勧めに従って、木乃美が通っている学校を訪れた。

 ちょうど午後から本読み会の日で、私の他にもちらほらと親が参観に来ている。


 本読み会とは父兄や引退した先生が、毎週一回学校に来て各クラスで本を朗読してくれる会のことだ。子供たちの間では漫画文化が根強いため、言葉から展開する想像力を高めようと、学校が企画したユニークな催しである。

 教室に着くと下条先生が待っていた。佐川さんの告別式以来の対面だった。

「お久しぶりです。お元気そうで良かった」

「教え子たちに心配させるわけにはいきませんから。それに亨さんも私が元気に教壇に立つことを望んでいました」

 最愛の男性ひとの死を乗り越えて、なんとか元気を取り戻したようだ。


「今日、朗読をしてくれる人はあの方ですか?」

 教壇に作られた席には一人の老婦人が座っている。白髪のショートカットで化粧は薄く、ブラウンのリブタートルネックニットに、白のロングスカートを合わせていた。

 上品そうな眼鏡をかけて本を読んでる姿は気品に溢れて、まるで映画のワンシーンを思わせた。

「そうです。雰囲気あるでしょう。私たちの先輩となる吉原妙子よしわらたえこさんです。もう教職は引退しているんですが、こうして本読みに来てくれるんです」

「お年はいくつぐらいですか?」

「もう八十才を超えているんですが、まだまだお元気で綺麗でしょう。私もあんな風に成れたらと憧れます」

「ご結婚は?」

「実はされてないんです。あんなに素敵な方なのに、教職に一生を捧げられたみたいで」


 朗読が始まった。吉原さんの声は凛として、時に激しく時に優しく物語を紡いでいく。子供たちは食い入るように朗読を聞きながら、彼女の展開する世界にぐいぐい引き込まれていった。

 私は優れた読み手が放つ言葉の世界の影響力に、改めて気づかされた。物語が元々持っている魅力に読み手の人生が反映されて、無機質な文字の世界に命が吹き込まれてゆく。

 子供たちの創造性や感受性を育てる上で、これほど適した教育はないと確信した。だが誰もができるわけではない。読み手の技量と人生の重みが無ければ、これほどの効果は期待できまい。そう思うと、東さんが提唱する教育改革にぜひ加わって欲しいと、考えずにはいられなかった。


 朗読が終わった。何人か泣いてる子供がいる。どの子も引き込まれてしまって、まだ物語の世界から戻れずにいる。読み手にとってはこの光景こそ、儀礼的な拍手喝采など及びもつかぬ称賛となるだろう。

「さあさあ、皆さん、今日のお話は終わりましたよ」

 吉原さんの声でみんなが我に返り、ありがとうございましたと、口々にお礼の言葉を口にする。

 私は吉原さんと言葉が交わしたくて、彼女の方に向かいかけると、彼女は上半身をぐらっと揺らし、力なく床に膝をついてしまった。気分でも悪くなったのか、額と胸を手で押さえて動けずにいる。


「どうしました?」

 慌てて駆け寄って吉原さんの肩を支える。

「大丈夫です。ちょっと胸が苦しくなっただけですから」

 吉原さんは気丈にも立とうとするが、身体に力が入らない。見ると顔が真っ青になっていた。子供達も心配して集まって来た。私は子供たちに心配させてはまずいと思い、吉原さんを抱き上げた。


「とりあえず保健室に行きましょう」

 下条先生の案内で吉原さんを保健室に運びベッドに寝かす。

 吉原さんは胸を抑えたまま背中を丸めている。

「下条先生、救急車を呼んだ方がいいですね」

「救急車を呼ぶと生徒がいたずらに騒ぎ出すので、私が車を出します。三上さんも一緒に来ていただけますか?」

「分かりました。ちょっと待ってください」

 私はスマホを取り出して、慶新大病院に電話をかけ、医局の慎二先生につないでもらった。幸いすぐに慎二先生が捕まった。


「すいません。柊一です」

――おっ柊さんか、珍しいねどうしたの。

「実は小学校に来てまして、読み聞かせをしてくれた女性が胸を押さえて苦しんでいるんです」

――胸を、その女性は高齢なの?

「はい、八十才ぐらいだと思います」

――心臓かも知れないな。すぐこちらに来てくれ。

「分かりました。今下条先生が車を出してくれるというので、すぐにそちらに向かいます」


 私は吉原さんを再度抱きかかえて、下条先生の車迄運び、二人で後部座席に乗り込んだ。

 下条先生の車は恐ろしく速かった。通常三十分かかる道程を半分の十五分で走り、慎二先生と看護師さんたちが玄関に迎えに出るのとほぼ同じタイミングで着いた。

 慎二先生は私とちらっと目を合わせたが、すぐにストレッチャーに乗せられた吉原さんの診察を始めた。そして看護師さんたちに指示して処置室に消えた。


 私と下条先生は処置室のドアの前で、何の案内もなく取り残された。何か告げる暇もないほど、緊急を要したのかもしれない。

「私がここに待機しますので、下条先生は学校に帰ってください」

「嫌です。私も残ります」

 下条先生は絶対に残るという強い意志をむき出しにして訴えた。

「何を言ってるんですか。生徒のみんなが心配してたじゃないですか。あなたが帰ってあげないと、目の前で起こったことがみんなのトラウマになりますよ」

 生徒の話をされて、下条さんは怯んだ。

「分かりました。でも何かあったらすぐに知らせてください」


 下条先生を返した後、事務所に電話を掛けた。支援者の一人が出たので、毬恵さんに取次ぎを頼む。

――お電話代わりました。

 いつものように冷静な声が返ってくる。

「実は教育現場の実態を知ろうと、慎二先生の娘さんが通う小学校に行ったのですが、本読みに来た女性が倒れてしまい、その付き添いで病院にいます。今日のミーティングは欠席させてください」

――分かりました。ちなみに倒れた女性のお名前は分かりますか?

「はい、吉原さんです」

――吉原……もしかして妙子さんですか?

 珍しく毬恵さんの声が揺れている。

「はい、昔は教師だったそうです」

――分かりました。柊一さんは今病院ですね

「はい、意識が戻るまで待ってようと思います」

――では、意識が戻ったら、私に連絡をください

 すぐに電話が切れた。何か慌ただしい気配だ。


 それから一時間経ったところで、慎二先生が出てきた。

「どんな具合ですか?」

 私は出てきたばかりの慎二先生に詰め寄って聞いた。

「心臓内腫瘤しゅりゅうで心不全になった」

「心臓内腫瘤?」

 慎二先生の険しい顔から難しい病気を連想した。


「心臓の中に腫瘤ができてる。おそらく良性だ。だが開いてみないと正確には分からない」

「悪性の可能性は?」

「五%ぐらいだろう」

「そうか二十人に一人か」

 この場合、それが高いのか低いのか分からない。


「だが良性だとしても問題がある。吉原さんの体力が落ちていて、手術に耐えれるかどうか分からない」

「薬で溶かしたりできないのですか?」

「悪性なら抗がん剤治療だが、良性の場合は副作用を考えると、手術しかない」

「良性の場合、放置したらどうなります?」

「大丈夫な場合も多いが、場合によっては心不全を繰り返したり、脳に血栓が飛んで脳梗塞に成ったりする。いずれにしても命に関わる可能性がある」

「うーん」

 言葉が出ないで唸っていると、東さんと毬恵さんがやってきた。


「丈晶、どうしてここに」

 慎二先生が驚いて東さんを見た。

「柴田君が柊さんから電話をもらって知った」

「ああ、柊さんは今丈晶の支援活動をしていたね」

「で、先生はどうなんだ?」

「良くない。心臓に腫瘤ができている。良性か悪性かも開けてみなければ分からない」

「じゃあ、早く手術しろよ」

「落ち着け、先生の体力を確認してからだ」

 何か二人の様子がおかしい。


「あの、先生って」

「吉原先生は、俺たちの先生なんだ」

 そうか、それで分かった。いつもと違って慎二先生が暗い理由が。東さんは怒ったように慎二先生を睨みつけている。毬恵さんはそんな東さんを心配そうに見ていた。

「丈晶、せっかく来てもらったが、吉原先生は今は落ち着いて眠っている。会うことはできないから今日は帰った方がいい」

「いやだ、俺は先生が目を覚ますまでここにいる」

「先生!」

 毬恵さんが咎めるように声を上げた。

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