邂逅 ――選挙活動に参加することを慎蔵夫婦に伝え、親の愛を知る
「慎蔵先生、お願いがあります」
その日の夕食を食べながら、私はかしこまって切り出した。
「どうしたんだい、柊さん」
「実は今日慎二先生のところに行って、東さんの選挙について聞いてきました。今回の選挙はずいぶん苦戦が予想されるそうです」
「また慎二の奴、柊さんに要らない話をしおって」
「いえ、私から話して欲しいとお願いしたんです。そこで東さんの支援者になりたいと思いました。ついては、たいへん厚かましいお願いなんですが、選挙が終了する一カ月間だけ、病院のお手伝いを休んで、東さんのお手伝いをさせてもらえませんか」
まったく厚かましい願いだった。だが、この世界で何も持ってない以上、お願いするしかない。
私は慎蔵先生に深々と頭を下げた。慎蔵先生は私の方を見てじっと考えていたが、満江さんに「お父さん」と促されて、やっと口を開いた。
「手伝いのことなんてどうでもいいんだ。最初は大事な孫娘の命を助けてもらって、その恩返しだと思っていた。一緒に住みだしてからは、息子が一人増えたように思うようになった。家族だったら、好きなことがしたいと言われれば、黙って見守るよ。一カ月なんて期限を切らないで、自分が納得するまで丈晶をとことん手伝えばいい。ただ……」
慎蔵先生はそこで口籠った。私は慎蔵先生がこれから大切な話をするのだと感じて、黙って次の言葉を待った。
「ただね柊さん、政治の世界って本当に恐ろしい。道理が道理でなくなると言うか、汚い手段が日常茶飯事だ。それとずっと関わるにはよっぽど強い意志がないと、精神が病んでしまう。儂はそんな世界に、柊さんだけは関わって欲しくないと思ってた。柊さんが自分でやりたいっていうからには止めはしないが、心配だからどうしてやりたいかだけは教えてくれないか?」
思わず目の周りが熱くなった。たった三カ月やそこらで、私のことをこれだけ思ってくれていたとは、考えてもみなかった。
慎蔵先生は、私の無知をいつも嬉しそうに見ていた。
あれは親の目なのだ。親ではなくロボットに育てられた記憶しかない私は、親が子を育てるということを今まで知らなかった。
親が子を育てるとは、自分の言葉や行動を通して、自分の生き方を伝え、自分のやり残したことを託すことなのだ。それは死がある二一世紀だからこそ成り立つのだろう。
「慎蔵先生、大丈夫です。三か月で言うのも変かもしれませんが、私は慎蔵先生に生き方を教わったと思っています。そしてそれに基づいて自分の生き方を探した結果、東さんを落選させない支援活動に行きつきました。高邁な理想などありません。ただ、自分の信念に基づいて、東さんが当選するために全力を尽くします」
私は真剣に慎蔵先生に話した。三一世紀で暮らしていたときに、人に対して心の内を話したことはなかった。得体のしれない衝動のようなものが身体を突き動かしている。
「お父さん、柊さんは大丈夫ですよ。だってあなたの生き方を学んだんだもの。自分を信じなきゃあダメですよ」
満江さんの言葉に慎蔵先生は頭を掻きながら言った。
「儂自身、前の選挙では丈晶を信じる思いだけで突っ走ったからな。柊さん、思いっきりやってみな。病院のことなど気にしなくていい。だが金はないぞ。選挙というのは、とにかく金がかかるもんだ。出してやりたいが、この前新しい機械を買っちまったからな」
慎蔵先生は辛そうに言った。
「お金迄頂こうとは思っていません。自分でなんとかします」
「そう言っても、記憶喪失じゃあどこにもつてはないだろう」
確かにその通りだった。手弁当で手伝うための費用以外にも、自分のアイディアを実現させるためには、ある程度の資金が必要だった。そしてそれは東の事務所から出してもらうと、公職選挙法に触れるかもしれないのだ。
「柊さん、これをあなたにあげるわ」
奥へいったん引っ込んで戻って来た満江さんの手には、通帳とハンコが握られていた。中を見ると五百万円以上の預金高が記載されていた。
「この金どうしたんだ?」
慎蔵先生の方が驚いて声を上げた。
「私が看護婦の給料としてもらってるお金を貯めました。四十年間こつこつと」
「貯めたって、この前慎二がマンション買ったとき、お祝いで二百万出してたじゃないか」
「あれは慎二が家を買ったときのために溜めていたお金、他にも木乃美が大学に入るときのお祝いも貯めてるわよ。でもこれはそういうのとは別、趣味で貯めてたお金」
「そんな給料なんてたかがしれてるだろう」
「月十二万円よ。でもね、小児科なんて忙しい毎日を送っていると使う暇がないの。何年かに一回、あなたと旅行に行っても、私は出さないし」
そう言って満江さんは私の方を見て笑った。
「そんな大事なお金使えません。御自身のために使ってください」
私は慌てて辞退したが、満江さんは首を振りながら、通帳とハンコを私の手元に差し出してきた。
「だから自分のために使うの。私は柊さんが何をするのか見てみたいの。だって、今までずっと新しい生活に慣れようとしてるだけだったあなたが、初めて自分で何かをしたいと思ったのよ。私だってあなたのことを息子のように感じてるんだから」
満江さんの目には、一歩も引かない決意があった。
こんなにも人の好意に甘えていいのか迷ったが、二人との絆が嬉しくて受けとることを決心した。
「ありがとうございます。このお金はお借りします」
私は通帳とハンコを伏し拝むようにして頂いた。
「甘えついでにもう一つお願いがあります。明日は午後から休診なので、満江さんに少しだけ付き合って欲しいのですが」
もちろん、満江さんはにこやかに承諾してくれた。いいところを満江さんに全て持っていかれた慎蔵先生だけが、少しだけ面白くなさそうな顔をしていた。
次の日の午後、私は満江さんと一緒に富士沢市の駅前通りにいた。ここには全国チェーンの百貨店や大型電気量販店などが立ち並び、この街の一大ショッピングエリアを形成していた。
満江さんは病院が忙しくて、あまり外出の機会に恵まれないせいか、私と二人のショッピングにウキウキしていた。
「最初はどこに行くのかしら?」
「まずはスマホを買いに行きましょう」
「そうね。選挙を手伝うなら連絡手段は必要ね」
私は満江さんと連れ立って、電気量販店の一階に立ち並ぶ通信キャリアの一つに向かった。そこで満江さん名義でスマートフォンと、インターネット無線の契約をした。私は戸籍不明者なので、自分の名義で契約できないからだ。
図らずして満江さんに渡されたキャッシュカードは、クレジットカードも兼ねたマルチ機能カードだったので、契約は全てそのカード名義にした。近所の子供が銀行に就職したとき、クレジットカードの契約実績を上げるために、頼まれてこのカードを作ったらしい。
通信手段を確保した私は、次に同じく一階に隣接するパソコン売り場に向かった。そこで、高スペックのノートパソコンを購入した。
ここまでの所有時間は約一時間、事前調査のおかげで効率よく目的を遂げた。
私が帰りましょうと満江さんに言ったら、久しぶりの外出でまだ帰りたくないような素振だった。それならと二人でお茶をすることにした。
どうせなら、少し雰囲気のある喫茶店に行こうと思い、向かいの百貨店の二階にある紅茶専門店に向かった。
「ずいぶん雰囲気のいいお店ね」
満江さんは、英国王室のような上品な家具と雰囲気にすっかり満足していた。紅茶が運ばれてくると、少しだけ香りを楽しみそっと口をつけた。
「ところで、丈晶さんの手伝いって何をするつもりなの」
静かなカフェの一角で、満江さんは興味深そうに訊いてきた。
「東さんの広報担当になろうかと思います」
「広報担当?」
「はい、日本の選挙の歴史を調べると、戦後初の選挙が行われた一九四六年から現代まで、その形態や当選ノウハウはほとんど変わってないことが分かりました。一方で選挙のルールブックである公職選挙法は、二〇一三年にインターネットによる選挙活動を認める大改革が行われました」
「そうなの、私はインターネットって全然分からないけど」
満江さんはピンと来ないような顔つきだった。
「一般的にはインターネットはまだ、選挙にあまり活用されていないようです。原因としては日本人は選挙に関心が低く、各候補者がどんな人で、どんな政治をしようとしているか調べない傾向にあります。そうなるとホームページのような待ち受け型のしかけでは、有権者の目に止まらないからです」
「じゃあ、どんな方法が使われてるの?」
「やはり街頭演説、チラシ配り、そして握手ですね」
「ああ、それなら分かるわ」
「しかし、選挙で一番影響力が大きいのは組織票と事件なんです」
「組織票って分かるわ。労働組合とか医師会とかでしょう」
「そうです。そういう全国的な組織と、地方にある様々な支援団体ですね。例えば候補者の後援会なんかは強固な組織票ですよね」
「いろんな方の利害が絡んでいるから仕方ないわよね」
「ええ、そうなんですが、東さんの選挙に関する限り、この組織票では、対立候補に圧倒的に負けています」
「そうなの……」
「対立候補は現職の県会議員です。その時の選挙で組織した大きな後援会が、この富士沢市にあります。加えて笹山剛ともつながりがあり、こちらの支援団体の票も期待できます。何より東さんが財政引き締めのために、公共工事を大幅に減らしたので、その復活を願う市内の土木・建設会社の票が大量に流れることが予想できます」
「でも前回は僅差だけど、丈晶さんが当選したのよ」
満江さん少しだけ不満そうに反論した。
「前回は事件がありました。市の財政が債務超過という事件が。それが普段選挙に来ない無党派層を呼び込み、六八%という高い投票率を実現して、勝つことができたんです」
「今回はみんな投票に来ないの?」
「国政選挙も含めて過去十年の富士沢市の平均投票率は四七%、全国的に見ても低い投票率です」
「あらそうなの、全然知らなかったわ」
満江さんは意外そうな顔をした。彼女のように投票を義務として考えてる人には、思いもよらない数字なのだろう。
「現在の市の人口は二四万人、その三分の一にあたる七万人は、最近五年間で市外から流入して来た人たちなんです。彼らは万全の医療体制と、富士山に近い環境に惹かれて集まった。だが市政自体にはさして興味がない。だから投票率は落ちるんです。そして、ここで生まれ育った地元民も、その一部は高齢化して投票に行くのが億劫になっている」
「じゃあ丈晶さんは危ないわねぇ」
満江さんは本気で心配になってきたようだ。
「だから私は市民のみなさんが選挙に行きたくなるような選挙運動を仕掛けたいと思っています。今日の買い物はそのためなんです」
「そんなことができるの?」
私の言葉に、満江さんは半信半疑な顔をしていた。
「どんな方法をとるか、楽しみにしていてください」
私は満江さんに自信ありげにほほ笑んだ。
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