死が教えてくれた味 5
相変わらず味のしない朝食を食べて、いそいそと立ち上がる。
初めて昌代さんと会ってから一週間経つ。
まだギブスは取ってもらえないが、右足はすっかり回復した。歩行しても問題ないはずだが、逆にギブスが付いてるから松葉づえがいる。
整形外科医にはもう大丈夫だと言ったが、そんなに早くは治らないとギブスを外してくれない。この世界の治療のスピードはそんなものなのだろうか。
ここでの一番の楽しみは壮介さんの病室に行って二人と話すことだ。壮介さんは意外と元気で顔を出すと楽しそうに話してくれる。もう九六才でそれなりに老化しているから、話す速度はゆっくりだが話には奥行きがあった。
三百年も生きている私が経験したことのない仕事のやりがいや苦しさ、起伏にとんだ人間関係の面白さは聞いていて心が躍った。
その間、昌代さんは横に座って楽しそうに聞いている。もう何度も聞いているらしく、時折彼女の意見も挟んで来る。それがまた違った見方で面白い。
知識欲という言葉を実感する毎日だった。
病室には椅子が一つしかないので、自分の部屋の椅子を忘れず持参する。三人で話すゆったりした時間を堪能するには、こちらも椅子に座ってゆったりした体制作りが重要だ。
ノックして病室に入ると、壮介さんの寝ているベッドに頭を載せて、椅子に座ったまま昌代さんが寝ていた。壮介さんの左手がちょこんと昌代さんの頭の上に置かれている。二人とも寝ているようだ。朝食が置かれているがまだ食べていない。
起こすのも忍びないので出直そうと思ったが、二人の姿が絵になるくらい優しさに溢れているので、もう少し見たいと思いなおして近づいた。
二人とも柔和ないい顔をして寝ている。昌代さんは二人で出かけたのは一度だけと悔やんでいたが、こうして二人だけで過ごす時間はたくさんあったろうから、それはそれで幸せだったんじゃないかと思った。
私は他人と二人でいて、お互いにこんないい顔をして過ごした経験がない。どんな気持ちになればこんな顔ができるのか知りたかった。
じっくりと二人の寝顔を鑑賞していてふと違和感を感じた。壮介さんが呼吸をしてないように思えた。壮介さんの鼻の下に指を置いて耳を澄ませてみたが、息も当たらないし呼吸音も聞こえない。
慌てて昌代さんを起こそうとするが、昌代さんは顔を伏せたまま起きる気配はなかった。
ナースコールのボタンを押すと、斎藤さんが師長の木俣さんと一緒に駆け付けてきた。
「呼吸をしてないみたいなんです」
私は珍しく動揺していた。
「三上さんは下がってください」
木俣さんはそう言って自分の代わりに壮介さんの脈を取り、斎藤さんに向かって首を振る。すぐに秋永先生も駆け付けてきて、ペンライトで壮介さんの瞳孔を確認する。
「先生、昌代さんが!」
先ほどから昌代さんを起こそうとしていた斎藤さんが悲鳴のような声をあげる。秋永先生が昌代さんの手を取って顔色を変える。
秋永先生は斎藤さんと二人で昌代さんを抱き上げて宗吉さんの隣に寝かし、再びペンライトで瞳孔を確認する。
「二人とも亡くなっている」
私は頭から血がスーっと下がってゆくように感じた。マイクロチップが制御しているにも関わらず、動揺が抑えきれない。
「亡くなったって、なんで昌代さん迄、秋永先生、二人はもう目を覚まさないんですか」
秋永先生は、自分でも何を言っているか分からない私を黙って見ていた。
「昨日は二人とも元気に話してたんです。今日は壮介さんから息子さんの結婚式の話を聞くはずでした」
誰に言うともなく言葉だけが出た。
「三上さん、いったん病室に帰りましょう」
斎藤さんに促されて壮介さんの病室を出た。斎藤さんが病室まで心配そうに付き添ってくれた。ベッドに腰を下ろすと頬が濡れていることに気づいた。目から水が出て、それが垂れて頬を濡らしたのだ。
「どうしたんだ」
慌てて目を擦ると水はもっと流れてきた。
「おかしい、水が止まらない」
「いいんですよ。短い間でも親しい人が逝ってしまったら泣いてもいいんです」
そう言って斎藤さんは膝まづいて私の両手を握ってくれた。その手の上にも水が落ちた。
泣く……もしかしてこの水は涙か。
「斎藤さん、今私は泣いているんですか?」
斎藤さんは頷く。
「そうか、泣いているのか」
記憶にある限り生まれて初めて人に対して流す涙だった。突然胸が苦しくなった。
「感謝すれば良かった……」
「えっ」
斎藤さんが怪訝な顔をする。
「ちゃんと感謝の言葉を伝えておけば良かった。すごく楽しかったんです。話している時間が幸せで、あんなに楽しい時間を過ごしたのに、感謝の言葉を伝えてなかった」
両手を握る斎藤さんの手に力が入った。
「伝わってます。言葉にしなくても気持ちは伝わってます」
両手から斎藤さんの優しさが伝わってくる。
「三上さん、元気出してくださいね。私はもう行って手伝わないといけない」
「ありがとうございました。斎藤さんがいてくれてよかった」
私の言葉を聞いて、斎藤さんは急いで壮介さんの病室に戻っていった。
一人になるとまた二人の姿が頭の中に浮かんでくる。二人が微笑んだ顔を思い出しながらふと気づいた。
――そうか、二人はお互いに感謝していたんだ。もうすぐ別れが来ることに寂しさを感じながら、それでもお互いの存在に、一緒に居てくれたことに感謝して毎日を過ごしていたんだ。
そう思うと、少し気持ちが軽くなった。
急に木乃美の顔が見たいと思った。二人に置いて行かれた寂しさかもしれない。ベッドの横のキャビネには木乃美が置いていった梅味の飴があった。美味しいよと言われたが、味が分からないので放置していた。寂しさも手伝って何の気もなしに手にとって、口に放り込んだ。
しばらくすると、口の中にツーンとした感触がした。思わず唾が出てくる。舐めているとその感触はどんどん強まって来る。だんだんと口がドローっと溶けるような感触もしてきた。
ツーンとドローが微妙に溶け合って心地よい。初めての感覚に戸惑っていると、マイクロチップが反応した。これが味覚だと告げてきた。
自分に味覚が生じたことに驚きながらも、二つの異なる味覚がどんどん混ざり合って幸せな感じがしてくる。
しばらくその感覚を楽しみながら、次に木乃美に合ったら伝えなければいけないと思った。
――梅の飴、美味しかったよ。ありがとう!
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