愛と死 ――木乃美の学校で出会った素敵な女性は、木乃美の担任だった

「おーい、こっちだよー」

 木乃美が元気よく前を駆けていく。この町をよく知らない私のために、時折木乃美が案内役を買ってくれている。

 今日は土曜日で木乃美の学校はお休みだが、体育館を開放してボランティア団体が人形劇をやるそうだ。学校をよく知らない私は、自ら木乃美のお供を買って出て、観劇に行くことにした。


 入院して二週間、退院許可が出たものの、これからどうするか途方に暮れた。戸籍がないという大問題は別にしても、先立つものがないことが致命傷だった。お金を稼ごうにも、働いたことがないから何をすればいいか分からない。


 そんな窮地に陥った私に、秋永先生が救いの手を差し伸べてくれた。記憶が戻るまで秋永先生の実家に居ていいと言うのだ。

 秋永先生の実家は彼の家から徒歩三分の距離にあり、秋永先生のお父さんは秋永医院という名の小児科を開業していた。私はそこに住み込みで手伝うことになった。

 幸いなことに秋永先生の父慎蔵しんぞうさんと、母満江みつえさんは孫の命の恩人と、大歓迎で迎えてくれた。



「がんばれー」

 子供たちの悲痛な声が上がる。主人公の鼠が窮地に陥っているのだ。隣では木乃美が、真剣な表情で両手を握りしめてテレビに見入っていた。

 人が動かしてるのは丸見えなのだが、なぜかみんな引き込まれている。

 昨夜慎蔵先生は、人形劇には作り手の思いが籠っているから、それを観てくればいいと言った。確かに人形には不思議な暖かさがあった。

 劇が終わっても子供たちの興奮はなかなか治まらない。もっと観たいと不平の声をあげる。ボランティアの人たちは、そんな子供たちの姿を嬉しそうに見ていた。


 私も劇に影響されたかもしれない。変な感慨に満たされながら、木乃美と一緒に席を立つ。木乃美は立ち上がると、若い女性と楽しそうに話し始めた。

「柊一君、私の担任の先生だよ」

「三上柊一で。木乃美ちゃんのおじいさんの病院で働いています」

「初めまして、下条紀香です」

 下条先生は看護師の斎藤さんよりは幾分年上に見える。三十才手前といったところか。最近、容姿と年齢がリンクするこの世界に興味を覚え、見た目で年齢を推測する癖がついてしまった。ポイントは首と手だ。


「木乃美ちゃんの命を救ってくれたヒーローだって聞いてますよ」

 下条先生は優しそうな目で私を見ながら微笑んでくれた。挨拶一つにしてもこの時代は温かさがある。

「いやだ、柊一君、先生が美人だから赤くなっている」

 木乃美が目ざとく気づいて囃し立てる。

「木乃美ちゃん、大人をからかってはいけませんよ」

 下条先生が優しく注意すると、木乃美は大人しく「はい」と従った。

 病院で子供を抑えるのに苦労している私には、木乃美を一言で制するとは恐るべき統率力だと感心した。

「じゃあ、先生、これからも木乃美ちゃんをよろしくお願いします。私たちはこれで失礼します」

 そう言って木乃美の手を引っ張って出口に向かう。


「柊一君、先生素敵でしょう」

 先生の姿が遠ざかると、木乃美がまた話題をぶり返した。

「ああ、素敵な人だ」

「でしょう。斎藤さんとどっちがいい?」

 斎藤さん? なぜ彼女の名前が出てくるのか分からなかったが、おそらく木乃美と私の共通に知ってる若い女性がこの二人だからだろう。

 だが、根本的に性欲のない私にとって、この質問は難問だった。人としては二人とも素晴らしい女性だ。


「分からないな、二人とも素敵だし」

「わあー、柊一君って気が多いんだ」

 木乃美がやや怒ったように非難した。

「いやそういう意味じゃないよ」

「大丈夫だよ。ちょっと待っててくれれば木乃美が恋人になってあげるからね」

 それはどれほど待てばいいか分からないが、性欲のない私には、今の木乃美はちょうどいい相手かもしれない。


「ありがとう。木乃美ちゃんが大人になるのを首を長くして待ってるよ」

「約束だよ」

 予想外に真剣な顔をして木乃美は言った。

「約束だ」


 観劇の後はランチを取る。無一文の私に気を使って、木乃美の母の志津恵さんが五千円渡してくれた。小説家である志津恵さんにとって、木乃美のいない自由な時間は貴重なのだろう。ベビーシッター代としてありがたく頂いた。

 二人でファミレスに入ってハンバーグセットを注文する。島津さん夫婦が亡くなった日に味覚が戻ってから、私は食べることが好きになった。


 この時代の食事は、栄養摂取の面での効率は良くない。食べ過ぎると内臓に対する過度な負担となり疾患の原因になりかねない。

 だが味覚があると、次にどんな食事が出るのだろうと想像するのが楽しい。食べることが生きる上での楽しみの一つになっている。それは過去の楽しみの何よりも代え難い魅力があった。

 私は木乃美の祖母が作ってくれる食事が、楽しみでしょうがない。


「木乃美ちゃん、ここの料理って少し舌にぴりってするね」

「そうかなぁ」

「うん、美味しいけど、少し辛さとか甘さとかも、不自然に強調しているような気がする」

「柊一君ってグルメなんだね」

 グルメってことはないだろう。つい最近味覚を得て、ほとんどが木乃美の祖母の味しか知らないのに。

 だが、ここの料理は本当に味が強い。それでも全部食べて二人でフリードリンクをいただく。この時代のドリンクは栄養価の低いものがほとんどで、嗜好品として嗜むものらしい。


「なんだか、ここの紅茶よりも満江さんの入れてくれるお茶の方が、食後にはぴったりくるなぁ」

「何おじいちゃんみたいなこと言ってるの。婚約者とデートしてるんだから、お紅茶ぐらい飲みなさいよ」

 うへえーついに婚約者とのデート設定になったのか。いったいどこで木乃美がこういう知識を仕入れてくるのだろう。もしかしたら学校というところは、授業の中でこういった情報も教えているのかもしれない。


 かわいい彼女の攻勢に少し辟易して入り口の方に目を向けると、先ほど学校で会った下条先生が男性と二人で入って来た。びっくりして目を丸くすると、木乃美が気づいて入り口の方を振り向く。

「柊一君、ダメだよ騒いじゃあ、知らないふりしなきゃ」

「えっ」

「今、先生はデート中なんだから」

「はい?」

 何で挨拶してはいけないのか分からなかったが、とりあえず恋愛の師匠である木乃美の言葉に従う。


「あの、木乃美先生、なぜデート中は知らないふりをするんですか?」

 意を決して質問すると、予想通り木乃美が呆れたような顔をして私を見た。

「大人なのに、そんなことも分からないの」

「はい」

「先生は偉いのよ。なのに好きな人がいることが分かったら、健司君とかにからかわれるでしょう」

「そうなんですか?」

 思わず木乃美に敬語を使ってしまった。


 それからは意識し過ぎて逆に下条先生を盗み見てしまう。恋人同士の二人を見るのは初めてなので、好奇心を抑えることができなかったからだ。

 ついに下条先生と目があってしまった。向こうも気づいたみたいで、立ち上がってこっちに来る。

 まずい、木乃美に怒られると思った。


「こんにちは、またお会いしましたね。木乃美ちゃんは大好きな三上さんとランチかな?」

 下条先生はにこにこしながら尋ねてくる。決してまずいところを見られたという感じではなかった。

「そうです。さっき婚約して、今デート中なんです」

 木乃美はどうどうと自分たちの関係を説明した。

「あらそうなの。三上さん責任重大ですね」

 下条先生は本当に笑顔が爽やかな女性ひとだ。

「先生もデートですか?」

 木乃美がズバリ核心をつく。思わずドキドキした。


「そうよ。あの人は小学校の先生で、二小で教えているの。研修会で知り合って、できれば結婚したいと思ってるんです」


 最後はおそらく保護者代理の私に向けた言葉だろう。お相手を見ると目が合って、軽く会釈をされた。

「じゃあお邪魔したら悪いから向こうに戻るね」


 下条先生が席に戻ると、木乃美が分かったような顔で、教えてくれる。

「やっぱり先生もお年だから、結婚を意識するのよね」

「木乃美ちゃん、お年って、先生は何才なの?」

「二八才だよ」

「どうして二八才で結婚を考えなきゃいけないの?」

「そういうものなの」

 木乃美も理由は分からないらしく、少し不機嫌そうに答えた。

「ごめんなさい、知らなくて」

 謝るとここぞとばかりに木乃美が言った。

「ほんとに何も知らないのね。いいわ今晩はお祖母ちゃんの家でご飯を食べながら勉強しましょう。携帯を貸して」


 木乃美に慎蔵先生から渡された携帯電話を渡すと、器用に番号を押して電話をかけた。

「あっ、ママ。私、木乃美。今日お祖母ちゃんの家に泊まるね。大丈夫、柊一君と一緒だから」

 用件だけ告げるとすかさず切って、またダイヤルした。

「もしもしおばあちゃん。私、木乃美。今日お祖母ちゃんの家に泊まってもいい?」

「OK。ありがとう」

 こちらも最小限のやり取りで目的を果たした。まったくロボットでもこれだけ効率的に商談を纏めるのは不可能だ。

「二人のOK貰ったよ。今日はおばあちゃんの家で恋愛のレッスンだね」

 すっかり木乃美はご機嫌になっていた。

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