死が教えてくれた味 4

「あら斎藤さん、そのお若い方はどなた?」

 老婆が上品そうな口調で、親し気に斎藤さんに話しかける。

「交通事故で入院された三上さんですよ」

 斎藤さんは老婆のことが好きなのか、愛想よく答える。

「ああ、秋永先生のお嬢さんを助けた方、聞いてますよ、お手柄様でした」

 そう言って老婆は私に向かって頭を深々と下げた。

「頭を上げてください」

 私は慣れてない展開にそれだけ言うのが精一杯だった。老婆は顔を上げて私に優しい笑顔を見せた。

「木乃美ちゃんはホントにいい子で、私と連れ合いはいつも慰められてるんですよ」

 確かに木乃美は人懐っこい。倒れている見知らぬ私にも臆することなく声を掛けてきた。三一世紀の人間には考えられない行為だ。


「木乃美ちゃんが怪我しなくて良かったです」

「そうですよ。あの子の笑顔が見れなかったら、私たちは毎日が暗くなる……」

 そう言った老婆は笑顔の中に少しだけ寂しさを滲ませた。


「さあさあ、お話はまた今度にして、三上さんは病室に帰って休みましょう」

 斎藤さんが暗くなりそうな雰囲気を察して話を打ち切った。

「じゃあ、三上さんまたお話ししましょう」

 老婆はそう言って洗面所に去った。


「あの女性はどなたですか?」

 病室に戻ると私はすかさず斎藤さんに尋ねた。

「島津昌代さんと言って、旦那さんが入院しているので付き添っているんです」

「悪いんですか?」

 斎藤さんは暗い顔になった。

「ええ、あまり良いとは言えません」

 私も暗い顔になった。昌代さんが最後に見せた暗い表情を思い出したからだ。


「ここにはそういう方がたくさんいるんですか?」

 私はおそるおそる訊いてみた。

「ここは病院ですから。一生懸命病気と闘っている方はたくさんいます」

 斎藤さんはきっぱりと言い切った。


「斎藤さんも大変ですね」

「そんなことないです。皆さんが生きるために懸命に戦っている中で、少しでもお手伝いができることを誇りに思っています」

 私は自分の何気なく発した言葉を否定されて驚いた。生まれて初めて職業意識という感情に触れ、その強さに圧倒された。


「どうしたらそんな風に成れるんですか?」

 思わず訊いてしまった。

「三上さんだって木乃美ちゃんを助けたじゃないですか。それと同じです。理由なんてないですよ」

 斎藤さんは再び笑顔を返してから、車椅子を押して病室を出て行った。


 一人残された私は、自分がなぜあの時木乃美を助けたのか考えていた。あの時は三一世紀にいると思っていた。頭部に致命傷を受けない限り手足が潰れようが、いかようにも再生できる。

 それなのに無意識に身体が反応していた。その理由がどうしても分からなかった。いくら考えても答えにたどり着けず、脳内のマイクロチップに聞いても答えは帰って来なかった。


「こんにちは、柊一君!」

 目を開けると木乃美が来ていた。あれから考えているうちに寝てしまったみたいだ。

「こんにちは、木乃美ちゃん」

 なぜか木乃美の顔を見ると気持ちが落ち着く。

「柊一君って、よく寝るよね」

 木乃美は私は何でも知っているという顔をした。よく寝る理由は分かっている。エネルギー不足なのだ。ずっとドリンクでエネルギーを補っていたから、固形食物に胃や腸がうまく適応できていない。マイクロチップが必死で調整しているが、肝心の臓器が長い間使っていない機能を要求されているため、適応するにはしばらく時間がかかるだろう。


「木乃美ちゃんは寝るのが好きじゃないの?」

「うーん、眠くはなるけど寝ちゃうとパパに会えないから必死で起きてるよ。でも時々パパはすごく遅くなるからいつの間にか寝ちゃうけど」

「今日は一人で来たの?」

「違う、ママと一緒に来た」

「ママはどこにいるの?」

「昌代さんのところに行ってる」

――ああ、今朝会ったおばあさんか。


「木乃美ちゃんたちは昌代さんとは親しいの?」

「うん、昌代さんってとっても優しいんだよ。それにとっても難しいあやとりとか、お手玉も上手なんだ」

――あやとり? お手玉?


 まったく想像つかないが、木乃美が驚くぐらいには凄いのだろう。

「木乃美ちゃんは昌代さんが好きなんだな」

「うん、大好きだよ。柊一君もね」

 木乃美は大きな目をさらに見開いて、いいこと言ったと言わんばかりの顔をした。


「すいません、お邪魔していいですか?」

 病室の入り口から声がしたのでそちらを向くと、りんごの乗ったお皿を持った昌代さんと志津恵さんが立っていた。

「どうぞ、どうぞ」

 私は二人を歓迎した。椅子は一つしかないので、木乃美がさっと立って昌代さんのために席を空けた。


「志津恵さんが私と柊一さんのために、りんごを買ってきてくれたんで、皮を剥いて持ってきました。良かったら召し上がってください」

「どうもすいません」

 私はお礼を言って、差し出されたりんごを一つ頬張った。相変わらず味はしないが、かじるとジューシーで他の固形の食べ物とは違った感触だった。


「壮介さんはどのくらい入院しているんですか?」

「もう三か月になるかしら」

 何気なく聞いた私の問いに、昌代さんは笑顔のまま答えた。

「昌代さんはその間ずっと付き添っているんですか?」

「ええ、息子が一人いるんですけど、結婚して家を出ちゃったから一人で家にいてもすることがないでしょう。それに壮介さんが病気になってから分かったこともあるんです」

「どんなことですか?」


「私たち結婚して六五年になるんです。壮介さんが働いているころは仕事仕事で、ずっと家を一人で守っていました」

 昌代さんは遠い昔を愛おしむように両手で頬を覆って、その姿がしわくちゃな顔を少女のように見せた。

「壮介さんが定年退職してからずっと家にいるようになって、逆に私がお友達とフラダンスしたり観劇に行ったりして、外に出るようになったんです。でもあの人はいつもにこにこして、私が帰ってくるとその日あったことを聞いてくれたんですよ。私はだんだんそれが当たり前だと思うようになってました……」

 そこまで話して、昌代さんの表情が少しだけ曇った。

「入院してから壮介さんが一言だけ言ったんです。二人で見た箱根の紅葉はきれいだったなぁって。私、気づいたんです。あの人その時の写真をずっと大事に持っていて、もう二十年も経つのに、ずっと大事に持っていて……」

 昌代さんは言葉が続かなくて下を向いた。志津恵さんと木乃美も初めて聞いたのかまじめな顔で黙って聞いている。


「壮介さんにとって素敵な思い出なんですね」

 そう言いながら、自分の言葉が上滑りのような感じがする。

「そうです……でも私、たった一回なんです。息子の結婚式を除くと、あの人が家にいるようになってから三六年間で一回しか二人で出かけてないんです。ずっとほったらかしにしてきた……」


 昌代さんはそれ以上はもう声が出なかった。皺の多い唇は後悔の念で小刻みに揺れていた。目のあたりは薄っすら濡れているように見える。

 誰も何も言わなかった。いや言えなかった。静かな時が流れる。


「ごめんなさい。変な話を聞かせちゃって、そろそろ戻らないと壮介さんが寂しがっちゃうわ」

 昌代さんは志津恵さんに手を取られて椅子から立ち上がった。

「昌代さん、私も一緒に行く。あやとり教えて」

 木乃美が気を利かせたのか、昌代さんを病室まで送っていく。後には志津恵さんだけが残った。


「昌代さんは後悔してるけど、たった一度でも大切な思い出があるなら幸せです。入院がきっかけでそれも分かったんだし」

 私の言葉に志津恵さんが微笑んだ。

「そうね。きっと昌代さんは今気づいたんじゃなくて、何となく分かっていたと思うの。ただ、壮介さんが倒れて入院して、もう二人でいる時間が長くないと思って悲しくなったんじゃないかしら」


 そういうものかと思った。まだ生まれてから人の死に合ったことがないだけに、その前後でどんな気持ちになるのか想像できなかった。

「壮介さんは治らないのですか?」

「あまり患者さんのことは訊かないようにしてるけど、熱血漢のあの人が診ていて何もしないということは、治すのは難しいのかもしれないわね」


「慎二先生は熱血漢なんですか?」

「あの人はもともと外科医でそれなりに技術があったみたいなんです。特に腹腔鏡は今でも時々外科から頼まれたりするみたいなの。ただ、外科だと手術以外で患者と寄り添えないからと、内科に転科したぐらい患者に思いを入れるのよね。それが木乃美のことに成ると一層激しくなって、柊一さんは木乃美の命の恩人だから、意識が戻るまでは帰れないと、ずっと病院に泊まり込んでいたのよ」

 自分のためにそんなに熱心になってくれる人がいるなんて、想像もできなかった。三一世紀では医師はロボットしかいないから、患者に対して熱くなることはない。


「ありがたいことです」

 私はいろいろな気持ちを込めて、一言だけ感謝の言葉を口にした。

「それじゃあ、そろそろおいとまするわ。柊一さんもお大事に」


 志津恵さんが帰った後も、私は死についてあれこれ考えていた。考えているうちに、実は人にとっては大切なことのように思えてきた。

 昌代さんは二人でいる時間に終わりがあるから、やり残したことを思って悔いている。つまり死が何かをしようと思う力に変わっているのだと気づく。


 死だけではない。身体が動くうちにとか、目が良く見えるうちにとか、老いや死が時間という制約を課して、それが今を生きる力に変わる。

 そう考えると三一世紀に生きていたころ、いかに時間に対して無関心であったかよく分かる。時間を意識しないで生きることは、死んでいることと変わらない気がした。

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