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 私たちには味覚がない。私たちと言うよりも人類全体が、この五世紀の間に味覚を失ってしまった。

 二千年の初頭に始まった自己細胞による再生医療は、角膜移植から始まり一定の成果を上げながらもその進みは遅かった。

 研究を促進させるためには、資金面の問題があまりにも大きかったからだ。


 その問題の解決はまったく畑違いの分野で働く男の手によって成し遂げられる。

 男の名はアレクサンダー義人。日本人の父とギリシャ人の母を持ち、米国で生まれで日本育ちの五七才の職人だ。


 人類は二三世紀になると、ジェネティックエンジニアリングの飛躍的な進歩によって、バイオフーズが驚異的な供給能力を発揮し、爆発的な人口増加による食糧問題を完全に解決した。

 残るは人々の生活を支えるエネルギー供給だが、依然として石油など資源消費型発電が大半を占め、電気を始めとしたエネルギー価格の高騰を抑えられなかった。

 エネルギー問題は、二百億を超える人々の生活水準を支える上で、深刻な問題となっていた。

 この問題を解決したのが、当時は一職人に過ぎなかったアレクサンダー義人だ。


 義人が趣味で考案した六層の異なる化合物から成る太陽光発電パネルは、八十%もの驚異的な発電効率を実現し、一気にエネルギー産業の主役に躍り出た。

 だが何よりも彼が凄かったのは、この発明が齎す利権を独り占めしないで、この特許をどの企業も自由に使用可としたことだった。


 メッキ工場の一従業員に過ぎなかった義人は、多大な投資をしたわけでもなく、経営責任からも解放されていた。

 職人魂に導かれるままに、人類最大の問題解決となる大発明を、いち早く世界に普及させる道を選択したのは自然の結果と言える。


 そんな私利私欲のない彼の人柄に惹かれて、多彩な人物が彼の下に集まってきた。

 研究者こそ少なかったが、神業的なスキルを要する板金屋、長年電気工事に携わり高電圧の電気工作物取り扱いに精通した電気工事士、五十年以上塗装一筋に携わり塗料と材質を極めた塗装職人、その他にも板金工、研磨工、溶接工、縫製職人、変わったところでは長年伝統建築に携わった丹塗師などもいた。

 そのほとんどが老人だったが、彼らは義人の職人的な気質とその偉業に惚れ込み、惜しげもなく彼らの培った技術を提供した。彼らの庶民的で、高尚な理想は持ってないが、ただ少しだけ前を向いた行動が、更に人類に画期的な成果をもたらす。


 義人が開発した発電パネルは改良され、どんどん小さく成った。小さくなるだけではなく、太陽光集積機能を新たに発明し、パネルの単位面積当たりの発電量を五十倍に引き上げた。

 小さな町の小さな工場で生まれた彼らの発明は、人類の深刻なエネルギー不足を根本から覆し、人々の生活を一変させた。


 一つの発明に満足することなく、次々に新しい発明を生み出す彼らの開発力は、結果的に莫大な富の還元という見返りとなった。

 それでも、義人を始めとする仲間たちは全て老人のため、今更金持ちに成ることに興味はなく、使い道のない金だけが、義人たち自身が分からなくなるほど溜まっていった。


 そんな彼らの中でただ一人、金の管理が分かっていた男がいた。

 納見栄吉のうみえいきち、現役時代は大企業で一会計担当者としてサラリーマン人生を送った男だ。

 栄吉は一種の会計職人で、義人の下に集まる莫大な金を、適切な管理と投資によって、更に何倍にも増やしていく。

 年月の経過と共に彼らの金は莫大な額となっていく。減らないからだ。増やすことに長けた栄吉も金の使い方は知らなかった。その貯蓄高は国家予算に近づく。


 生活の不安もなく、楽しい発明活動にいそしんでいた彼らに影が差し込んだ。


 仲間の一人が過労で倒れたのだ。

 元々年を取って身体の自由が利かなくなって現役を退いたのに、発明というおもちゃと、技を競うに足る優れた仲間を与えられて、嬉しさのあまり狂ったように働いてしまったのだ。


 普通だったらここで無茶をせずに働くことを止めて、貯まった金で静かに余生を送るところだが、この老人集団の発想は違った。

 ここで発明活動にブレーキを掛けたら、自分たちは生きがいを失って、逆に死期を早めるだろうと考えたのだ。


 彼らは発明活動を続ける傍で、医療関係の勉強を始めた。この楽しい時間を少しでも伸ばすこと、それが当時の彼らに最も必要なこととなった。

 この時義人は六二才。

 再生医療と運命的な出会いが待っていた。


 当時再生医療は、それによって得られる輝かしい未来に、大きな期待を掛けられていたが、研究資金不足のため、目覚ましい成果に乏しかった。


 加えて野心的な研究者たちはもっと金回りの良い研究に目が向くので、なかなか優秀な人材を大量に集めることができないでいた。


 そこに義人たちの資金が流れ込んだのだ。

 しかも元来儲けようという気がない集団だ。リターンは研究成果による彼らの仲間の延命のみと、制約のない援助だった。


 再生医療の研究は息を吹き返した。優秀な研究者がこぞって集まり、他の研究分野の追随を許さない、人類史上稀な大きな発展を遂げた。

 義人たちは特に大きな理想や目標があるわけではなく、職人道を徹したに過ぎなかったが、結果として彼らの活動は人類に大きな至福を齎した。

 何しろエネルギーと生命の維持という超難問が一気に解決したのだ。これに先立って解決されていた食糧革命と合わせて、人類は生活の不安から解放された。


 一方、義人たちの活躍は別の方面に影響を与えていた。

本来政府レベルで取り組むべき問題が、一介の老人集団によって解決されたのだ。この快挙にエリート官僚たちは慄いた。


 元々彼らは政治家と違って、その卓越したスキルと知識によって、他の誰よりも世の中に貢献していると信じていた。それが彼らがまったく関与しない中で世の中が大きく変わってしまうことに、彼らの高いプライドは深く傷ついた。

 彼らはなぜ自分たちが後れをとったのか必死で考え、結論として導き出したのが、人間による政治の限界だった。


 彼らの導きだした大胆な政策は、AI政府構想だった。

 それはまるでSFか映画の世界のようだったが、驚くべきことに国民からは大きな反対はなかった。

 生活の不安が解消し貧富の差がほとんどなくなることによって、自分たちに有利な政府、政策は彼らの一番の要望ではなくなっていたのだ。


 かくしてスタートしたAI政府は期待以上にうまい政治を行った。汚職はゼロに成り治安も安定した。

 AI政府は日本から世界に拡大し、やがて世界は一つのAI政府の下に統合された。

 エネルギーと高度医療が、思想や民族の壁を打ち破ったのだ。


 しかし、そんな社会が百年も続くと、今度は人類に有史以来記録にない、大きな変化が生じた。人々の欲望が消滅したのだ。


 AI政府は健康増進策として、人体の様々な器官の制御ができるマイクロチップを無償提供し、全ての人の脳内に埋め込まれた。

 義人たちが開発したコンパクトなソーラーパネルが、マイクロチップのバッテリーとして手の平に埋め込まれ、マイクロチップの半永久的な動作を保証した。


 マイクロチップの効力で、人間の健康は飛躍的に安定し、運動機能も向上した。

 例えば運動をしなくても、余分なカロリー消費のために筋肉への負荷運動が脳から指示され、無意識のうちに強力な筋肉と適切な体形が維持された。


 身体だけでなく、脳の機能も変化した。人間は動物の感情を理解できるようになったのだ。犬や猫などの表情やしぐさをマイクロチップが解析し、その感情を正確に脳内で言語化した。つまり、コミュニケーションが可能に成った。


 ペット愛玩率が急速に上昇し、それは性欲減退による出生率の低下に拍車をかけた。

 AI政府は生態系の維持のために、人間以外の生物に対する再生医療の適用を認めなかったから、ペットには、子を産み育て衰えて死ぬ、生物本来の姿が保たれた。


 人々は自分の身近から消えた生と死のドラマをペットの生き様に見出した。そしてその姿に熱狂し、映画や小説、漫画などの主役は人からペットに移った。

 再生医療の爆発的な普及によって、自身の老いと死を実感しなくなった人間は、ペットに人生の喜怒哀楽を求めるように成り、自ら子孫を残したいという本能が消え、最終的には性欲が消えてしまうという結果となった。

 やがて世界から人間の子供が消えた。


 性欲の消滅と共に食欲も薄れて行った。

 食欲というものは本来生存欲求に基づいて生じる欲望だ。生存欲求の強力な動機である死の概念が徹底的に薄れてしまっては、食欲が減退しても不思議ではない。

 食事の意味は、車がガソリンを入れるように、身体に栄養を補給するだけとなった。

 食欲の減退と共に、ついに人類は味覚も失ってしまった。


 これら欲望の消滅は人間の植物化とも言えた。永遠に続く時間の中で、大きな変化を感じることもなく生き続ける毎日。それを退屈と感じることもない。

 人類の平均寿命は五百才を超え、現在も毎年上昇しているが、そんなことには誰も関心を払わない。私自身も既に三百才を超えているが、誕生日すら忘れてしまっている。

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