第十二話 病(やまい)の呪縛

「わー、すごい。展望台じゃん。ここでご飯が食べられるんだ?」


 ようやく六階に来た茅野はそこに広がる光景を前に感嘆の言葉を漏らしたものの、その声にはいまいち覇気を感じられなかった。

 六階、食堂。

 そのフロアはこれまで何度か触れた通り食堂となっていて、特に医者から食事制限などを受けていなければ患者でも利用できる。というか、病院内に設えられていることからもわかるよう、病院食ほどではないまでもかなり健康志向のメニューが揃えられているわけだが。


 そんな食堂の四方の壁の内、一面はガラス張りとなっていて、この町を眼下に見下ろすことができた。

 さほど発展しているわけでもないこの町に高層ビルと呼べるような建築物は一つもなく、六階という、それほど高くないここからでも都会過ぎず田舎過ぎない、中途半端な町並みを堪能できる。


 ……が、まぁぶっちゃけ、その景観に特筆すべき点は一つもない。

 機能的にも様式美としても、そういうことを何も考えずに作られている町なわけだ。

 食堂を利用している客の中にも、この景色を楽しんでいる人間は一人もいなかった。

 初めてここに足を運んだであろう茅野も含めて。


「…………」


 その顔を見上げると、目線は確かに眼下の町並みに向けられているものの、その心中は感動や感嘆とは何か別のもので占められているように見える。

 ついさっきのあの休憩スペースでの執筆風景と同様、心ここにあらずというような。

 案内を求められたから案内したものの、正直おれは今更ながらに失敗だったと軽く後悔している。案内なんて断るべきだったかもしれない。あるいは真っ直ぐにここに来るべきだったか。


 ……いや、どちらにしろ時間の問題だっただろう。病院という場所に縁ができてしまった以上、遅かれ早かれ、ああいったものは目の当たりにすることになっていたと思う。

 茅野はもう病院にいるべきではない。一刻も早く、限りなく日常に近い生活に戻るべきだ。いや、それも対症療法でしかない気がするが。

 茅野自身が一朝一夕では治らない重い病を背負うことになってしまった以上、いつかは向き合わなければならない現実。

 そしてそれは目と鼻の先に迫っているものもある。


「おれが退院した後のことは何か考えてるのか」


 おれはガラスの前に設えられた手すりに背中を預け、天井を見上げながら問い掛けた。

 いつまでもこんな偽装関係を続けることはできない。

 おれが退院し、互いに会わなくなってしまえば、あの幼馴染み君にもこれが偽装関係だったか別れたかと思われることは避けられない。


「連絡先を交換してくれる気は……」

「ねーって言ってるだろ」

「ですよねー」


 無味乾燥とした町並みに視線を落としたままの茅野の顔には、うわつらだけの乾いた笑みが張り付いていた。


「それでもしばらくは誤魔化せると思うんだけどね」 


 まぁ別れたことも偽装関係だったことも、明言を避ければそれも可能だろう。


「時間の問題だろ。つーか、向こうがヨリ戻したがってんだから戻ればいーじゃねーか、元鞘に」

「……ミコトクンにはわかんないよ!」


 突如上げられた怒号に、食堂が静まり返った気がした。病院という場所ゆえに元々騒がしいわけでもなかったが、それでも今いる利用客は和やかに進めていた食事の手を止め、何事かとこちらに視線をそそいでいた。

 対して外の景観に向けられていた茅野の目は、いつの間にか食堂の床を悔しげに、恨めしげに睨み付けていた。


「入院してても好きなように病室から出歩いて、それどころか好きなように病院から出たりして、それでも特に身体を壊さずに生きていられるミコトクンにはわからないでしょ! 私が今どんな気持ちかなんて!」


 おれの体調云々に関して言えば全然まったくこれっぽっちもそんなことはないのだが、おれの口は反論することを選ばなかった。

 ただ、茅野の激情に耳を傾ける。


「どうせミコトクンは退院したら普通の生活に戻れるんでしょ! 普通に家族と笑いながらご飯食べて、好きなもの食べて、好きなように身体動かして、普通に友達と楽しくおしゃべりしたり彼女作ったり!」

「…………」


 友達はいないと言ったはずだが……まぁいーや。

 ついでにそこに付け加えさせてもらえれば、炎天下であろーと寒空の下であろーとどれだけ居てもこたえない無敵の身体だし、風呂だって好きなだけ入っていられる。サウナだって超余裕だ。おれくらいの玄人になれば、整う代わりにどこぞのバイクのエンジンのように心臓が爆音を奏でたりなんてするわけがない。

 最高の健康体だぜ。ふざけんな。

 しかしおれの口はそんな横槍を入れることを選ばなかった。


「私はそれができなくなるんだよ! お父さんもお母さんも、私がこうなってからずっと私に気を遣ってるし、あんまり笑わなくなったし、こないだは遊飛だってそんな顔するし! ……当たり前だよね! これからたくさん苦労することになるんだもん! 私の……せいで!」


 食堂には沈黙が満ちていたが、それもややあって数分前の和やかな雰囲気を取り戻す。

 代わってこちらに沈黙が乗り移って来たようで、気まずい空気が二人の間に充満し始めた。

 やがて少しは落ち着いたらしい茅野が床に視線を突き刺したまま、どこか投げやりに言った。


「ミコトクンが退院した後のことは何とかするから大丈夫だよ、心配しないで」


 ……ふむ、こりゃ本当に重症だな。

 おれは再び天井を仰いで重い溜め息を吐き出した。

 その重さゆえか、その溜め息もすぐに床へと落ちていった気がした。

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