第四四話 叫べ!(5)

「おまえの憂さ晴らしにカラオケに行った時のことを思い出せ」

「……えと、あたしの歌が巧く聴こえたっていう、幻のあの日のこと?」

「あの時、おまえは音程に気を遣って歌ってたか? 巧く歌おーとしてたか?」


 日和沢の眼が、長いこと閉じ込められていた暗闇の中に微かな光でも見出だしたかのように開かれる。

 それは針の先ほどの、本当にちっぽけで頼りないものかもしれないけれど。


「してなかった。あの時はなんかもう、とにかく叫び散らしたいだけだった」


 あの時の日和沢は、生徒会長である美夜にビラ配りを止められたり先代軽音部の悪行を知らされたりして半ば自棄やけになっており、音程を合わせようなんていうことはまったく頭になかったはずだ。ただあの時の気分のまま、感情のおもむくままに、怒声とも言える歌声をわめき散らしていただけだ。少なくとも、おれにはそんなふうに聴こえた。

 それがポイントだった。

 ヘタに音程を合わせようとするから自分の歌唱力の無さを意識してしまい、それに引け目を感じ、おっかなびっくり気も腰も引けて、怖じ気づいて尻込みし、たじろいで気後れし、その喉から発せられた声も上擦ったり裏返ったりしてしまう。

 つまりは、音程を気にしないこと――少なくともこいつ個人に限っては。

 仮定ではあるが、おれはそう結論付けた。

 実際に、あの日のあの歌声が、これまでに聴いた日和沢の歌の中では最もマシに聴こえた。

 ……とはいえ、憶測の域を出ないことも事実。

 それが的を射ていることに一縷いちるの望みを賭け、おれはもう一度念を押す。


「あの時の気持ちを思い出せ。あの時はどーやって歌ってた? どーいう気持ちで歌ってた? どーやって喉を震わせていた? 身体はどーやって動かしていた? その一挙手一投足、身体の内外問わず隅々まで可能な限り思い出して今回の曲に反映させろ。自分が音痴だってことなんか頭ン中から追い出せ。最悪、歌うっつー意識そのものを捨てちまうのもアリかもな。おまえはごちゃごちゃ余計なこと考えるのに向いてねーんだから」

「ちょっとそれヒドくないかな!?」


 確証はない。

 何しろ、検証している時間なんてなかったのだから。

 つーか検証することができなかった。これは冷静な精神状態で成功するものじゃない。検証なんてしてしまったら策として効果を失ってしまう。

 しかし、現状打てる手がこれくらいしかないのも確かだった。

 ステージ上では、昆虫食部が何やら白くてウネウネ動くものを生徒の一人に食べさせることに成功し、自分達のPRを締めに掛かっている。

 日和沢の出番が迫る中、ステージ袖には沈黙が漂っていた。

 しかしやがて、食って掛かるようだった日和沢の顔付きが、すうっと落ち着きを取り戻していく。


「そうすれば、上手くいく?」


 やや緊張気味にでもようやく前向きに問い掛けてきた日和沢に、しかしおれの口から出るのはその気勢を削ぐような本音。


「正直、わからん。だから、おれのこんな根拠も信憑性も皆無の戯れ言を実行するか切り捨てるかは任せる。……焚き付けた当人が最後の最後にこんなんでわりーけど」


 おれはまともに日和沢の顔を見ることができず、だからといって他の人間と目を合わせることもできず、薄暗い床に視線を逃がした。

 気恥ずかしくも気まずい微妙な間の後、視界の外からふっと柔らかく息を吐く音が聞こえてきて、おれは反射的にそちらを振り仰ぐ。

 優しげに首を振る日和沢の姿。


「ミコトくんが説明会に出ようって言ってくれなかったら、きっとあそこで終わってたよ。終わってなくても、今月中に軽音部を再建することは出来なかったと思う」


 まだ出来たわけじゃないけどな。


「ミコトくんがああやって提案してくれたから、あたしはまだ終わってないって思えたんだよ。だから気にしないで。むしろ感謝だよ」


 そう言って日和沢は、戦場に従軍する看護師のような笑みを振り撒いた。

 それがおれには不釣り合いで不相応なもののように思えたけれど、困ったことになかなか目を背けることもできず、不覚にもたっぷり十秒以上は視線を交錯させ続けてしまった。

 視線が吸い寄せられることに抗いようのない、むしろおれごと吸い込まれそうなほどに吸引力の強い大容量の笑み。おれと違って無垢で純白のそれは、いっそ吸い込まれてみたいとさえ思わされてしまうほどの笑顔だった。

 体育館から響いてきた歓声がこのステージ袖の空気を破る。いや、歓声というよりは安堵の声か、昆虫食部がそのアピールタイムを終え、この袖へと撤収してくるところだった。


「なんでみんな理解してくれないかなぁ。こんなに美味しいのに」

「仕方ないよ。ゆっくり時間を掛けてやっていこう」


 などと、声を掛け合いながらこちらに引っ込んでくる昆虫食部設立希望と思われる二人のやり取りを横目に、ふいにその手元が視界に入ってしまった。

 鉢のような陶製の容器に一、二センチほどの、白くて細長いものが無数にウネウネと蠢いていた。

 すぐに美夜の手が伸びてきておれの目を塞いだが、時既に遅し、現在のコンディションと相俟あいまって意識がどこかに飛びそうになった。

 しかし、次はいよいよ軽音部(仮)の、日和沢の出番だ。

 意識を手放している場合じゃない。

 もう少しだけ、あとほんの数分でいい。

 せめて事の次第をこの眼に留めるまで――全霊を込めて、意識を繋ぎ止める。

 暗転しそうになる視界の中で、日和沢がギターを手に、ステージのほうへと向き直る。

 おれよりもいくらか高く堂々としたその背には、既に数分前までのプレッシャーなどどこかへと吹き去っているようで、ある種の凛々しささえ感じられる。

 ステージのほうではグロッキー状態の鏡華先輩に代わってMCとして出ていった生徒会の男子役員が、昆虫食部の紹介PRを社交辞令と生徒の精神状態をおもんぱかった絶妙なコメントで締め括り、次の軽音部(仮)の紹介へと移っていた。


「じゃ、行ってくるね」


 落ち着き払った中にも強い意志と覚悟を強く宿した笑みをこちらに向け、日和沢はステージへと踏み出す。

 おれは口の端を持ち上げるだけの笑みを返し、その背を見送った。それが精一杯だった。

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