第四四話 叫べ!(1)

 生徒会室を後にすると、途端におれの全身は不慣れな静けさに包まれた。何せ、説明会におもむいている一年生とステージに立つ一部の上級生以外はいまだ授業中だ。耳に届くのは床を踏みしめるおれの微かな足音と、その度に擦れる衣擦れの音だけ。

 美夜はといえば、自分を抑え込んでいたものが一気に解放された反動からか脱け殻のようにその場にへたり込んでしまったので、生徒会室に置いてきた。もうしばらく、気持ちの整理が必要かもしれない。

 説明会における役割分担で言えばメインの進行は鏡華先輩に一任されており、生徒会長は有事の際の後詰めくらいの役割しか振られていないので問題はない。……トラブルやアクシデントが発生しなければの話だが、そんなものはそうそう起こらないだろう。

 対しておれのほうにはそんないとまはなかった。もう六限も終盤に差し掛かっている。つまるところ、それは軽音部(仮)出番が迫っていることを意味していた。

 自然と気持ちがはやり、焦燥感も相俟あいまって歩調も早くなる。が、正直、間に合うかどうかは怪しい。

 状況は一分一秒を争っている。

 タンタンタンタンとリズミカルに階段をくだり、一階にまで降りたところで、おれは一度、大きく息を吸って静かに深く吐き出し――そしてもう一度肺に空気を取り込んだところで、勢いよく床を蹴った。

 上履きの底とリノリウムの床が強く擦れる音を引き連れて、誰もいない廊下を駆ける。


 ……本気で走るのなんてどれくらいぶりだろーな。


 いや、本気と言ってもおれの足で出せる速度なんて高が知れているわけだが。


 たぶんおれ、五十メートルとか十秒いくからなー。測ったことねーから知らねーけど。

 

 それでも、身体に負担が掛かるレベルの速力であることは確かだった。

 身がすくみそうになるような恐怖心がないわけじゃあない。

 欠陥を抱えたこの身体のことは、もちろん脳裏をよぎる。

 せっかく持ち直してきた身体がもしもまた悪化してしまったら、とか。

 もしも途中で稼働限界が訪れて力尽き、動けなくなったしまったら、とか。

 こんな負担を掛けたりなんかしたら、おれに明日が来ない可能性だってゼロじゃない。

 けれど、そんなことに気を遣っている場合じゃない。

 

 今、この瞬間じゃなきゃ、向き合えないものがあるんだ。

 

 今頃、日和沢は、暴発しそうになるストレスとプレッシャーの中で出番を待っているだろう。

 ……そんなあいつの歌唱力は、結局この一週間、全然マシにならなかった。

 そんな中でも迎えてしまった説明会本番。

 伝えなければならない。

 あいつがどういう気概を持って聴衆の前に立つべきなのかを。

 おれの頭にあるのはそれだけだった。

 それだけを考えて足腰を懸命に動かしていたが……そこはやっぱり、欠陥品の身体だった。

 担当医には軽く適度な運動をするのも大切だと言われているせいで完全になまらない程度には筋力を維持しているものの、それでもその運動性能は確実に同年代の女子や小学生よりも低い。数秒以上の全力疾走なんて出来たためしはないし、そもそもが最初から全身がついてきていなかった。身体が重い。水中で走ろうとしているかのようなもどかしさが平常心を蝕む。全身が遅々ちちとして、脳から送られる命令をこなしてくれない。ダラダラトロトロと、焦れったくなる。

 もっと早くテキパキ仕事しろよと叱咤しったしたくもなるが、別に全身は手を抜いているわけではないのだからと、気持ちを落ち着かせた。いや、全身の無能さに気持ちが弛緩させられたといったほうが正しいか。

 これでもあくせく働いているんだ。無能は無能なりに一生懸命で、うえから出される理不尽な命令を何とかこなそうと必死なんだ。決して手を抜いているわけじゃない。

 それでも既に最初よりは大きく速度は落ち、雀の涙ほどの体力は尽きかけていた。

 次々と繰り出していたおれの両足の勢いは既に見る影もなく、もはや歩くよりも遅々とした早さでしか動いていない。紛れもなく地上なのに、本当に水中に下半身を沈めたかのように遅く重い動き。

 呼吸は乱れに乱れ、嗚咽すら混じる。 

 胸部には動悸が襲い、心臓の鼓動が激しく荒れ狂って全身を揺さぶっている。

 その度に心臓が締め付けられるような、収縮するようなズキズキとした痛みが走り、荒い呼吸をさらに不規則に阻害する。

 そうやって血液と酸素の巡りが悪くなっているせいか。

 頭の奥では何か、夜の空に瞬く星のようなものが明滅し、脳が焼けたような痺れたような不快な感覚を訴えている。

 バレないようにと祈りながら職員室の前を抜けたときだった。 

 もう少しで本校舎を出られるというところで、おれの足は完全に止まってしまった。膝をついて、決して衛生的とは言えない校舎の床に倒れ伏す。この欠陥品のスペックを鑑みれば当然の帰結。

 うつ伏せに倒れた身体の前面が冷たかった。右頬なんかは直接床面につけられていて、ひんやりともする。

 そもそもまだ四月の下旬。しかも本校舎の一階とくれば陽光も届きづらく、床面すれすれの辺りには冷気が這っている。

 徐々に体温が下がってくるのが全身に走る身震いで察せられるが、それでも身体を起き上がらせることはできなかった。 

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