第三十話 壁を前に(4)
ずっと腑に落ちなかった疑問が、ここに来てようやく氷解した気分だった。
篠崎が、大して良好な関係を築けているわけでもないおれをカラオケに誘った理由。
おれにしては珍しく空気を読んで二人にしてやろうとしたにも関わらず、引き留めてきた理由。
この場でおれに、自ら窮地へと向かおうとしている日和沢を
その日和沢はといえば、おれと側面が密着していることなど既に頭にないような顔でおれたち三人の足元に視線を落としているが、しかしその気分まで落としているといった色はない。
軽音部設立のリスク。さらには色々と立ち回ってきたが故の風評。
これだけの壁を前にしても、篠崎の忠告を聞き入れる様子はない。少なくとも一朝一夕には。
何だ?
何がある?
こいつが軽音部に、引いては軽音部に執着する原因は。
「どーしておまえは、そんなに軽音部に拘るんだ?」
気づけばおれは、とうとうそれを訊いてしまっていた。
これは色んな意味で訊いてはいけないことだと思っていた。
それを知って何らかの行動に出るにしても、無関係でいることを選ぶにしても。
これは
その心理の深い部分にまで手を伸ばすような行為。
なのに、好奇心が
おれの踏み込んだ問い掛けに困惑を隠しきれず、日和沢の視線は泳いでいる。
日和沢はしばらくそんなしどろもどろな挙動を見せた後、観念したように深い息を一つ吐いて一転、弾けるような笑みを見せて白状した。
「いやぁ~、実はあたし、小学生の時、イジメみたいな目に遭ってまして」
たはは、なんて笑いながら。
その口振りは軽快に聞こえても、十中八九その胸中は穏やかじゃないことが容易に想像できる。
誰だって
だからおれは、あまり空気が重くならないようなレスポンスを心掛ける。
「音痴が原因で?」
「うん」
そうすれば、自分の黒歴史は大したものじゃないのだと、どこにでも見られるありふれた小学校時代の一つに過ぎないのだと、そう思うことができるかもしれないから。
それは日和沢次第でもあるが。
「その時の音楽の先生が何の気なしに『なゆちゃんは音痴ですねー』って言ったのがきっかけでね、それからまぁ、色々とからかわれ始めて」
まぁ音痴だからな。何かと小学生男子が好きそうなああいったワードには連想しやすい。
彼ら彼女らの精神性によっては、そこからはトントン拍子だ。
「あたしの席とか下駄箱とかがね、可哀想な目に遭ったりしたこともあって」
席や下駄箱の心配をしている辺り、どうもこいつらしいという気がする。また、教師の発言でそうなったというのもさらに皮肉だ。
日和沢は困ったような笑みを浮かべながらも、その独白を断つつもりはないようだった。
ここで気を遣って話の腰を折ってしまうのは、第三者としてそれを黒歴史だと認知してしまう行為だ。なんてことのない過去の一幕として処理しようとしている当人からしてみれば、そうされることこそを
だからおれは、ただ耳を傾け続ける。
「お姉ちゃんがさ、昔からあたしと違って歌がうまいって周りから評判だったから、比べられて余計ね。今でも結構比べられる」
「おまえ、姉がいたのか」
「そだよ。言ってなかったっけ?」
「初耳だな」
互いに姉がいるという共通点が発覚し、僅かながらに親近感が生まれる。姉の存在で苦労させられているという点を考えれば尚更だ。おれも小学生の頃はシスコンとか言われて悩んだからな。おれは至ってノーマルなのであって、あいつがブラコンなんだ。
しかし一転、日和沢は声を熱く声を弾ませて姉のことを語り始める。
「ウチのお姉ちゃんすごいんだよ! 今実家離れて音楽関係に強い高校に通ってるんだけど、成績良くて将来有望なんだって! 芸能事務所とかプロの楽団とかも目を掛けてるところがあるらしくて!」
……前言撤回。
おれには自分の姉をこんなふうに自慢げに他人に語って聞かせるなんてできない。
こいつにとって姉は、本当に自慢の存在なんだろう。
「姉と比べられて嫌なんじゃなかったのか」
「それとこれとは別だよ。スゴイものはスゴイんだから!」
あ、そう……。
おれには度し難い割りきり方だった。
いや、ウチのシスコンにも長所は数えきれないほどあるんだけどな。ただ、あまりにも過保護が過ぎて、子ども扱いされ過ぎてそれを認めて周囲に吹聴することに抵抗があるだけだ。またぞろシスコンだとか
「で、それとおまえの小学生時代と軽音部への執念がどう関係あるんだよ」
「えとね、そんな小学校時代に偶然テレビの音楽番組で流れてた曲聴いて感動してさ」
言うや否や、一拍置いて日和沢は上機嫌に何かを
おそらくはこれが、こいつの言う小学生時代に感銘を受けたという曲なんだろう。
確かにその詞には、自らの欠点に挫けず、むしろ大多数の人間には持ち得ない個性だと誇って生きようなどといった、聴いた者を前向きにさせるようなメッセージ性が窺える。
が、音痴だ。
「下手でゴメンね」
「ホントにな」
「お前な……」
気を遣わないおれに呆れるような視線を左右から感じたものの、意識してスルーした。
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