第三十話 壁を前に(5)

「でもホントに衝撃だったんだよ。テレビに釘付けになって聴いてたみたいでさ、ロボットが止まったみたいに動かなくなってたから、お母さんが心配して声掛けてきたくらいだったもんね」


 おれには理解できない経験だった。

 そもそも音楽に興味はないし、おそらく日和沢ほどじゃないにしても小中時代の音楽の成績だって良くはなかったし、もしかしたらおれには何かから感銘を受けるという感性が欠けているのかも知れないと思った。

 今んところ、それで頭を悩ませたことはねーけど。


「それからは周りからからかわれても、少しは笑って聞き流せるようになった。あたしの席や下駄箱が可哀想な目に遭うのも少しずつ減っていった……気がする。全部、あの時に聴いたあの曲のおかげなんだよ」

「それで、軽音部を作ることに躍起やっきになってるわけか」

「うん。今度は自分がそういうのを伝える側になりたいから」


 その瞳に強い意志の輝きを宿し、ここではないどこか遠くを見ながら言う日和沢に、おれは距離を感じた。

 いや、ほんの一、二週間くらい前に知り合ったばかりで元々近しい存在なんかじゃないけれど、幼い頃に入院していた時にテレビで見た強く確固とした目標を持ったアーティストのように、画面一つ隔てた場所に立っているような感覚。

 おれがそんな印象を抱いた今の日和沢を、中学来の友人である篠崎はどう思っているのかと目の前を見上げると、そこには悲痛に歪んだ面持ちがあった。


「それは高校でやらなきゃいけないことなのか? 卒業してからじゃダメなのかよ……。今、軽音部にこだわってまでやらなきゃいけないようなことなのかよ」


 その口が言わんとしていることはおれにもわかる。

 学校という閉鎖空間はかくもシビアな場所だ。ほんの些細なことで簡単に他人を貶めるような空気が形成される。小学校時代に、他でもない日和沢自身がその憂き目に遭っていたように。

 だが。


「だからだよ」


 と日和沢は平然と続ける。


「自分のことを完璧だと思ってる人なんてそうそういないと思うんだよね。あたしみたいに、ほとんどの人はどこかに足りないものがあって、欠けてるものがあって、もしかしたら逆に余分なものがあったりして、きっと悩んでる。そういう人たちの中には、普通に会話の中で伝えようとしても何も響かない人もいるんだよ。だからあたしは、そういう人たちに、伝えてあげたい」


 普通に伝えることは誰にだってできる。しかしそれでは変わらない場合がある。人の心を動かすには到底足りない場合がある。

 

「合唱みたいなちゃんとしたヤツじゃ伝わらないものもあると思うんだ。バンド音楽みたいな、その時思ってることを感情に任せて音楽に乗せてぶつけるようなヤツじゃないとさ」


 言いながら、日和沢は堅く握った拳を前に突き出して見せた。そこにある壁を殴り飛ばすかのように。

 だが、それでも篠崎の顔が晴れることはなかった。


「なんでだよ……。どうして那由がそんなことしなきゃいけないんだよ! そもそも音楽なんてやらなきゃいけないことじゃないだろ! 軽音部だって絶対に必要なことじゃない! そんなやらなくてもいいことで自分から傷つこうとすんなよ……、見てられねぇんだよ!!」

 

 カラオケ店の廊下に篠崎の心底からの叫びが響く。


「ありがとう、ごめんね。でもあたしは……」


 男友達の感情的な言葉に目を見開いたのも一瞬、日和沢が泣き笑いのような顔でなおも続けようとした、その時だった。


「お前ら、今、軽音部って言ったか? その制服って瀬木高だよな」


 まったく聞き覚えのない声におれたち三人が同時に視線を向けると、そこに立っていたのは険しい顔つきに剣呑な空気を漂わせた、おれたちと同年代の男たちだった。

 黒をベースとしたコーディネートにシルバーアクセサリーの目立つロックでパンクなファッションに身を包んだ五人組。

 誰一人見知った顔のない男たちの纏う空気、発した言葉――。

 先代軽音部が起こしたというくだんの暴力事件の話が脳裏に甦る。

 放課後の遊び歩きは控えたほうがいいなどという、そんな形骸化けいがいかした決まり文句の由来を知った気分だった。


「お前ら、ちょっとオモテ出ろ」


 おれはひたいに向かう自らの手を止められなかった。

 だってまさか、リアルにそんなセリフを聞く日が来るなんてな。

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