第三十話 壁を前に(3)

「何を?」


 とぼけたような日和沢のレスポンス。

 しかし篠崎が何の話を切り出してきたのかは、大方予想がついているような面持ちだった。おれもついている。

 だからこれは惚けたというよりは、ただの確認。


「軽音部の設立活動だよ」


 案の定、篠崎が返したきた答えは予想と寸分違わないもの。

 おれを通して言おうとしたことを、一向におれが日和沢に言う気配がないので業を煮やしたのか、はたまた自分で言うべきだと判断したからか。

 想定内だったのは日和沢も同様だったのか、親しい友人からの反意にも狼狽する様子は一切見られなかった。この件に関しては何度か話しているとは言っていたが――。

 少し、空気が重かった。

 帯電しているかのようなひりついた空気が肌にまとわりつく。


「いやだ」


 この上なく端的にその意思を返した日和沢の声には普段の明るさはなかった。

 ただ中学来の友人の言葉を真っ向から受け止め、真っ直ぐにその視線を押し返す。

 篠崎の顔に、苦渋が滲む。

 それはまるで物理的な痛みを堪えているかのような。


「なんでだよ……。もうどうしようもないだろ……。八方塞がりだろ……。もしも軽音部を作れたところでリスクしかないじゃねぇか!」


 仮にそれが心痛なのだとしても自分のものではないはずなのに、あたかも自分の痛みであるかのように、篠崎はその声を轟かせた。

 カラオケ店の廊下。幸い、来客はみな個室にこもってカラオケを楽しむことに余念がないようで、その叫びが誰かの耳に届いている様子はない。

 先代軽音部が負の遺産を残してくれたせいでメンバーを集めることは絶望的で、仮にそれが成されたとしても校外でトラブルを生む危険性を孕んでいるという問題。

 日和沢は天井を仰ぎ見て「はあぁぁ~~~」と、盛大に溜め息を漏らした。

 いつも前向きでいたこのクラスメイトの口からそんなものが吐き出されたという事実はひどく違和感があって、微風に波紋を立てられた水面のような落ち着かなさをおれの胸中に去来させる。


「本当に、どうしよっか」


 知り合ってからこっち、初めてと言っていいほどに気の抜けた、まるで能面のように感情の読み取れない面持ち。しかしその中には、容易に諸手もろてを上げるつもりもない不屈の火も確かに見える。

 

「軽音部が出来てからのことは大丈夫だと思うんだ。学校の外では目立つ活動をしないようにすれば」


 案の定、こうやって山積している一つ一つの問題に対して思案を巡らせている。日和沢のなかには諦めるという選択肢などないようだった。


「確証はねーけどな。目立つ活動をしないよーにっつっても、何かしらの理由で楽器を校外に持ち出したりする必要性は出てくるだろ。メンテとか」


 聞きかじりの知識だが、材料や道具を用意して自分で手入れするにも限界があるはずだ。いずれは楽器そのものを専門店に持って行って見てもらわなければならないような事態だって出てくるかもしれない。


「制服を着てなければ大丈夫!」


 明朗に返ってきた答えに、おれは自然と口の端がつり上がるのを感じる。

 日和沢は折れない。

 ましてや俯いてなどおらず、きちんと前を見据えている。


「だから、とりあえずはメンバー集めを続けようと思う……んだけど」


 そう、問題はそのハードルが格段に上がったことだ。


「二、三年生は無理だな。先代軽音部が起こした問題を直接知ってる」


 それがどれほどの事件だったのかは伝聞でしか知りようがないが、今日の昼休みに聞かされた限りでは、ちょっと希望を持てるレベルではないのは確かだった。


「じゃあやっぱり一年生しか……」

「どーだろーな。上級生よりははあるかもしれねーけど、あんだけ堂々と校門前で軽音部の名前を吹聴してたからなー」


 その話が上級生の間で持ち上がり、去年の軽音部の悪行が再び話の俎上に乗せられ、それが一年生の間にまで届いている可能性は相当に高い。

 そうなると二、三年生のみならず、もはや一年生からでさえ、メンバーを募るのは難しいということになる。

 故に八方塞がり。状況は絶望的と言えた。

 だというのに。


「ま、何とか考えてみるよ!」


 日和沢がそう強がって見せたその笑みは、これまでにないほど苦悶に歪んでいた。

 おれと違ってコミュ力が高く、人と人の関わり合いに関してはおれよりも精通しているだろうこいつのことだ。既に先代軽音部の悪行が同学年にまで広がっている可能性については思い至っているだろう。

 現在の状況なんておれ同様に、あるいはおれ以上に実感を持って理解しているはず。

 それでもその意志を折ろうとしない日和沢に、篠崎が叫ぶ。


「どうしてそんなに意地になってんだよ! 高校の部活なんかに拘らなくたっていいだろ! 卒業してからじゃダメなのかよ! それに第一……向いてないだろ……」


 それを口にしてしまうのは本意じゃない。

 という気持ちがありありと伝わってくる悲痛な面持ちだった。加えてその肩も小刻みに震えている。それは慕っている相手にこれだけ相対するようなことを言ってしまえば関係が終わってしまうかもしれないという恐怖感。

 それがわかっているからこそ、日和沢も憤るようなことをしない。

 感情的にその意思をぶつけてきた篠崎に軽く目を見開きはしたものの、至って平然と、淡々としている。

 しかしそれは意外にも思えた。普段はあれだけストレートに感情を表に出すヤツが、こういう時だけはそれを抑えて見せている。自分のコンプレックスをこうも直接的に刺激されても、目に見えて傷心したような素振りも見せない。


「耀くんこそ、どうしてそんなにあたしに諦めさせようとするの?」


 篠崎は日和沢のことを慕っている。それが恋慕の域に達しているかは定かではないが、それでも慕う相手の目標に立ち向かうその意志を折ろうとしている。それがただの嫌がらせではないことなんて、今にも決壊しそうなその顔を見れば自明だった。


「那由をディスるような声が出てきてんだよ……」


 きりきりと絞り出すような声。

 こんなこと、本当は伝えたくなかっただろう。

 

「中学まではそんなんじゃなかったのに高校入ってから調子に乗り始めたとか、悪目立ちしてるとか……音痴のくせにとか。向いてないことをやろうとして夢見てるバカだとか。俺も……そう思う」


 徐々に湿ってきている日和沢の瞳が揺れた。

 それはこの上なく明るみに晒されたくなかっただろう現実。

 日和沢は、この分野でやっていくには致命的なハンデを抱えている。

 誰がどう見ても向いていない。適性がない。才能が……ない。

 日和沢は衝撃に見開いたその眼で篠崎を見ているが、しかし篠崎はそれを真っ直ぐに見返すことができず、ただ心痛に張り裂けそうになっているその相貌そうぼうを伏せている。

 こうなることはわかっていたはずだ。

 それでも慕っているが故に、言葉にせずにはいられなかったんだろう。

 こうでもしなければ、日和沢はいつまで建っても止まらないから。

 そのまま進めば今以上に傷つくことになるのがわかりきっているから。

 篠崎は不意におれのほうに向き直って声を荒げた。


「お前からも言ってやってくれ! もうやめたほうがいいって!」

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