第九話 衝突(2)

 おれは記憶ある限りの過去をさらっと振り返り、意識を目の前の問題に引き戻す。

 自分が普通の人間と違うのはわかっている。

 元々、身体の成長と共に徐々に良くなっていくはずの欠陥ではあったものの、中学一年くらいまでは不調による入退院を繰り返していたし、今でこそそれほどの事態はなくなったけれど、定期的に検査のために病院の世話にはなっている。


 運動制限の他にも細々こまごまとした制約がいくつもあって、一般人とは決して小さくない差異の生活レベルを強いられるのは現在でも変わらない。完治には至っていないのだから。

 完治なんて、見込みもないのだから。


 対して、そんな制限に縛られず、好きなように日常を送ることのできる人間が、周りには山ほどいる。

 おれの手には余ることをいとも容易くこなしてしまう人間が数えきれないほど存在する。好きなように好きなだけ身体を動かすことができて、好きなものを好きなだけ食べることができて、行きたいところに行きたいだけ行くことができて、『そんなこともできないの?』なんて蔑まれることもない。


 身体が不調を訴えて入院することになったせいで友達と遊ぶ予定だった時間を奪われることもない。できるはずだった友達を奪われることもない。

 それは努力や根性ではどうにもならない、持って生まれた性能の違いだ。

 普通の人間とは違う。


 わかってはいるけれど、同じになりたいと思うのは疎まれるよーなことか?

 そう足掻くのは許されないことなのか?

 迷惑や面倒を掛けることになるのがわかってはいても、諦められるようなことでもないんだ。

 だからおれは、そんな状況に抗う。

 持たざるものではないと、例え幼稚にでも主張する。

 おれは胸ぐらを掴み上げている篠崎の手を、そっと左手で包み込んだ。

 そして、ある部分にささやかな力を加える。


「――ッ!」


 すると篠崎は、そんな表現しがたい声を上げてすぐさまおれから手を放した。自分の親指を抑えながら、苦痛に歪んだ顔でおれを睨み付けてくる。


「おれからしてみりゃ、人の胸ぐらを掴むなんていうのは自殺行為なんだよな」


 窮鼠猫を噛む。

 生まれたときから窮鼠状態のおれを舐めんな。

 人間の関節には曲がらない角度、それ以上は曲がらない範囲というものが存在する。腕や脚部を対象としたプロレス技のレベルでそれをやろうとすると相応の力や運動量が必要になってくるが、大して力を必要としない部位も存在する。


 例えば指とか。

 人の胸ぐらを掴んだ親指というのは、関節がすべて然るべき方向へと曲がっている。しかし大抵、その爪先が手の平に触れるほどに曲がることはない。そうなるように外から握り込んでやると、親指に強烈な痛みを発することになり、大半の人間は反射的に手を離してしまうものだ。

 これは護身術の分野になる。

 そして護身術はコスパがいい。相手に与えるダメージに対して必要になる消費SP(スタミナポイント?)とのコスパが。


「……っと」


 気づけばさすがに通行人の衆目を集め始めていた。

 渡り廊下の内外から、一年生に限らず上級生の姿もある。

 しかし遠巻きに見ているそいつらはおろか、近くで見ていた日和沢や篠崎の取り巻きたちも、おれが何をしたのかは瞭然ではなかっただろう。篠崎本人にはさすがに理解できているだろうけれど、これはそれほどに暴力とは掛け離れた動作だったということだ。

 そもそもおれ暴力とか慣れてないし、得意じゃないし。

 おれが拳とか振るってもそよ風くらいの威力しか発揮されないんじゃねーかな。それこそコスパが悪い。


「病弱のくせに粋がってんじゃねぇぞ!」


 至って落ち着いている様子のおれを警戒していたのか、数秒は眼光鋭く睨み付けてくるだけだった篠崎が、再びその敵意を爆発させた。

 もう日和沢の厚意とか頭に無くないか? 私憤だろそれ。

 そう突っ込みたくなるような恫喝の声と共に篠崎が繰り出してきたのは、こちらの腹部に狙いを定めた拳だった。今度は明確な暴力。


 ま、そーくるだろーな。

 顔面にあとが残れば問題になるに決まってるし。

 本当に色々と残念なイケメンだ。相手が病弱だってわかってんのに、そんなことするかフツー。常人なら耐えられるような一撃も、おれ相手ではもしかしたら死に至らしめてしまうかもしれないのに。

 つーか本当に暴力と呼べる一撃ならたぶん入院はする。推定二、三日くらい。

 殴られたことによる外傷が原因ではなく、それによって掛かった心臓への負担が原因で。

 死ぬことはないと、思いたいけどなぁ。

 自分が人殺しになっちまう可能性とか、頭にねーんだろーなぁ。

 病弱って言っても死ぬほどじゃないとか、高を括ってるのかもしれない。

 おれの身体のことも、親族以外には詳しいことは打ち明けてないわけだからしょーがないけど。

 しかしその拳がおれを捉える直前、篠崎は宙を舞った。

 そのまま空中で前転をするように豪快に一回転し、鈍い音と共に地面に背中を打ち付けた。


「ぐはっ!」


 呻き声、というより、肺の中の空気が限界以上に吐き出されたことで漏れる音声。

 数秒呼吸が止まり、起き上がることはおろか声も出せないでいる残念なイケメンを見下ろしておれは言う。


「おまえの言うとおり、いつでもおれを守ってくれるイトコのオニーチャンが傍にいてくれるとは限らないからな。護身術とプラスアルファくらい齧ってんだよ」


 普段は見下ろされてばかりだから少しばかり優越感がある。まったくもってまやかしのそれではあるけれど。……あぁ、本当に虚しい。

 ちなみにプラスアルファは合気道だ。どちらもおれから言わせれば激しい運動というほどじゃなく、野球かサッカーで言えば野球になる。テクニックとタイミングが重要視され、合気道に至っては相手の力を受け流し、そのまま利用したりもするので、体力も筋力もあまり必要としない。


 非常にコスパのいい自衛手段。ハードなスポーツを続けてきただけのノーキンなら大抵なんとかなる。

 今、篠崎を地に伏せたのも、おれがその技術を振るったからだ。

 殴り掛かってきた勢いの乗った相手の前方に身体を潜り込ませ――。

 おれの身体に躓いたのと同時に繰り出された拳を下に引き――。

 投げ出された相手の身体を宙で回転させる。

 おれはほとんど腕力も体力も使っていない。

 素振りを十回やるよりは軽い運動。わずかな消費SP。

 まったく運動をしないのも良くないと医者に言われていたせいで、まぁついでにそんな技術をコツコツと磨いてきたわけだ。来る日も来る日も身体に負担の掛からない範囲で少しずつ――。一日の稽古量を増やしたくても三十分もしない内にドクターストップが掛けられるせいで、本当に焦れったい鍛練の日々だったけど。 


 とはいえ、入院の頻度が減ってきた頃から続けてきた分野なので、こんなのが二、三人いても何とか捩じ伏せる自信はあった。

 しかし、どうやらこいつのツレはみんな比較的温厚な性格のようで、戸惑いながらもこのやり取りを見ているだけだった。


「す、ストップ! ちょっと待ってってば!」


 と、代わりに割って入ってきたのは日和沢だった。

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