想いが通じる三分前――ムンバイ、インド。九月三日 午後十二時四十七分。

 クラブハウスのテラスは満席だった。

 まわりのテーブルから聞こえてくる話し声にかき消されることなく、よく通るテノールを響かせて彼は話し、彼女はほとんど無言でそれを聞いていた。

「――それで、母が言うには」彼はふと口を閉ざした。「どうしたの、君。今日は元気がないね」

 彼女は、正面に広がるグラウンドを眺めていた。カーン、という小気味好い音を響かせて、ポロの球が飛んでいく。練習なので、馬は乗り入れられていない。白いユニフォームを着た男たちが、ゆっくりと、球を追いかけている。

「いいえ」ようやく彼女は彼の方を向いた。「別に、いつも通りよ。あなたのそのおしゃべりもいつも通り。家族の話。シリコンバレーにいるお兄さまの話。慈善活動で飛び回っているお母さまの話。でも、肝心のお話はしてくださらないのね。もう九月よ。もうすぐ卒業して、そしたら、すぐに婚約。それなのに、あなたは婚約者のことすら教えてくれない」

 彼はじっと彼女を見つめた。「すまなかった。あとで言うつもりだったんだ。実は、こっちの大学には行かないことにした」

「行かない?」

「僕はイギリスに行く。婚約もしないよ」

「イギリス?」彼女は戸惑った。「いったい、どういう――」

「当面は、イギリスにいる叔父のやっかいになる」

「でも、今まで、おじさまの話なんて一度も――」

「叔父は家を捨てた人だからね。イギリス人と結婚して、大学で教鞭をとってる。実の姉弟なのに、母とは犬猿の仲だった」

 彼は、彼女の手を取った。

「僕と一緒に、イギリスに来てほしい」

「そんな……」彼女はそっと彼の手をはずした。「もともと、私とあなたでは家柄が違うから、結婚はできない。だから、あなたが婚約するまでの関係でいよう。そういう約束だったわ」

「最初はね」彼はうなずいた。

「ご両親には話したの?」

「もちろん、話した。父は理解してくれた。でも母は反対している。君のことも話した。正直に言うけど、反対されたよ。でも、説得し続けるしかない」

「私は――私にはわからない」

「じゃあ、賭けをしよう」彼は微笑んだ。「今から、君がびっくりすることが起こったら、君はこのことについて真剣に考える。どうかな。もし――」

 彼が言い終わらないうちに、突然、大きなカラスが彼らのテーブルに舞い降りた。カラスは、テーブルに置かれてるフルーツケーキをくわえると、くいっと、彼女を見上げた。黒いガラス玉のような瞳が彼女を見つめた。

 我に返った彼が手を払おうとすると、カラスは羽ばたき、グラウンドとテラスの間に張られているネットの隙間から、飛び去って行った。

「これは、あなたが……」彼女は彼を見た。

「ああ、いや」彼は首を振った。「さすがに、こんなことは仕込めないよ。実は、ボーイに頼んで、僕が合図をしたらプレゼントを持ってきてくれるはずだったんだ。ほら、君がいつかほしいと言っていた、日本の絵本が手に入ったんだ。それを渡すつもりだった」

「それはまたあとでいいわ」彼女は言った。「賭けはあなたの勝ちよ。だから私も真剣に考えます」

「返事は今じゃなくてもいいんだよ」

「いいえ」彼女は首を振って、グラウンド上の、休憩に入ったばかりのポロの選手たちを見た。「この次のチャッカーが始まるまでの休憩時間、この三分間が終わったら、お返事します」

 彼は口をつぐんだ。

 三分間を待つまでもなく、彼女の心は決まっていた。でも、たまには彼をやきもきさせてもいいだろう。それくらいのことは許されるだろう。これから彼女が負うことになるリスクを考えたら、取るに足らない、ほんのささいなことに過ぎないのだから。

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