想いが通じる一分前――長野県、日本。九月三日 午後三時四十九分。
突然降りだした雨に、彼女の手が止まった。傘が全く役に立たないくらい、激しい雨だった。開け放たれた入り口から雨が入り込み、床に置かれた彼女のローファーの甲に小さな水滴を作った。下駄箱に入れたばかりの上履きをもう一度取り出そうとして、彼女の手がまた止まった。雨の音に負けないくらい大きな足音が近づいてくる。彼女は入り口の方を振り向いた。
土砂降りの雨を背に、彼が立っていた。全身びしょ濡れで、頭からしずくをしたたらせている。
「よ、かった。まだ、いた」呼吸を整えながら、彼は下駄箱の方へ近づいた。
「どうしたの? だ、だいじょうぶ?」彼女が尋ねた。
「はー」彼はうなずいて、息を吐いた。
「傘」彼女は、彼の右手に握り締められている折り畳み傘を指さした。「なんでさしてないの」
「うん、まあ。ちょっと」彼はスニーカーを脱ぐと、来客用のスリッパを板張りの床の上に置いた。
「待って」彼女は鞄からタオルを取り出して、彼に手渡した。「これで拭いて。風邪ひいちゃう」
「あ、いや」彼は少しためらって、でも結局タオルを受け取った。「ごめん、ありがと」
彼女は下駄箱から上履きを取り出して履くと、廊下に置かれている長椅子のところまで行き、端に座った。
彼は頭をタオルでごしごしと拭いた。「引っ越し、さ。いつ、だっけ」
「来週の日曜日」
彼も長椅子の反対の端に座った。
タオルを首にかけて、彼は言った。「もうすぐだな」
「残念。この学校、けっこう気に入ってたのになー。この町も好きだったしさ。残念だ」
彼は自分の足元をじっと見つめていた。
「せっかく君とも、最近よく話すようになったのにね」
「ああ、うん」彼はうつむいたまま言った。「そう、だな」
「中学でも同じクラスだったのに、ぜんぜん喋んなかったもんね」
「ああ、うん」
「中学のとき、一緒のクラスだったの、知ってた?」
「知ってるよ、もちろん」
ようやく彼は顔を上げて、彼女を見た。
「ふふん」
微笑んでいる彼女に、慌ててまた彼は視線を落とした。
雨音が止んだ。
周囲が徐々に明るくなっていく。
彼の視線の先、自分のスリッパのつま先の方に向かって、長方形に切り取られた光が徐々に迫ってきた。
顔を上げると、外は完全に晴れわたっている。
「うわー」彼女が立ち上がった。「見て見て。すごいよ」
彼女は飛び跳ねるようにして駆け出し、下駄箱の前の板張りの端まで行くと、外を見わたした。
「なんか、きらきらしてるよ」彼女は彼を振り返り、また外を見た。「きれー」
「うん」
彼は、外の景色ではなく、彼女の後ろ姿を見ながら言った。
「二年だって」彼女は、外を見たまま言った。
「え」
「お父さんの転勤。二年たったら戻ってくるって。ここに」
「そ」彼は慌てて立ち上がる。「そうなのか。な、なんだ、そうか」
「うん」
「二年か、そうか」
「たぶん三年生の二学期には間に合うと思う」
「そっか。よか――」と言いかけて、彼は口をつぐんだ。
彼女はいぶかしげに、彼の方を振り返った。
「どうしたの」
「お、俺さ」彼はぎゅっと手に持った傘を握り締めた。「す、好きだった、お前の朗読。現国のさ。ほら、教科書。読むやつ。あれ、俺、すっごくうまいと思ってた。いつも。聞きながら、感動してた」
「ありがと」彼女は笑った。「そんなこと言われたの初めてだな。えー。なんか照れるな。えへへへ」
「あ、ははは」彼もぎこちなく笑って、でもすぐに、真剣な表情になった。「だからさ、また帰ってきて、聞かせてくれよな」
「わかった」彼女は彼の方へ近づいて行った。そして、小指を立てた右手を彼の顔の前に突き出した。「じゃあ、約束しよう」
ためらいがちに、彼は自分の右手の小指を、彼女の小指に絡ませた。
「待ってて」彼女は言った。
彼はうなずいた。
「それで」指を結んだまま、彼女は小さく首を傾げた。「君からは、なにか言いたいことはありますか」
ほんの少しだけ、彼の小指に力が込められた。
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