金魚鉢

紅野 小桜

 


「朝起きたらね、お父さんたちが金魚になってたの」


 そう言いながら、彼女は目の前に置かれたガラスのボウルに齧りかけのウインナーを放り込む。それに食いつく金魚を見ながら、僕はぼんやりと「金魚ってウインナー食べるんだなぁ」などと吞気なことを考えていた。



 彼女と僕は一昨日付き合い始めた。僕が告白して、OKをもらった。その日から一緒に下校するようになった。そこまでは、多分、普通のカップルと変わらなかった。

 一昨日の帰り道で、彼女は嬉しそうに「私のこと、好きなのよね?」と聞いた。当たり前だ。好きだから告白した。僕がうなずくと彼女は一層嬉しそうに顔を綻ばせた。

 昨日の帰り道、彼女は僕に「私とずっと一緒にいたいって思ってくれてる?」と聞いた。僕はこの時、「ああ、この子はちょっと重たい子かもしれないな」と思いながらうなずいた。重たいかどうかは、まだそこまで問題ではないように思えたから。すると彼女はまた嬉しそうに笑って、「明日の放課後、時間ある?」と聞いた。話しておきたいことがある、と。


 そして今日、雨の降るなか僕は彼女の家に来た。

付き合いたての彼女の家に来るのは酷く緊張して、親御さんへの挨拶のシミュレーションをしたり隣にいる彼女に気取られないように何度も深呼吸をした。

 そしてそんな緊張を吹き飛ばしてくれたのが金魚だった。


 ダイニングテーブルと、そこから見える居間の机。その両方にガラスのボウルが置かれていた。部屋が暗いせいで中がよく見えない。何だろうと思っていると、彼女がそのボウルに向かって「ただいま」と声をかける。隣に行って覗き込むとその中には金魚がいた。

金魚をボウルで飼うなんて変わってるな、と少し首を傾げた僕をよそに、彼女はまた口を開く。

「お父さん、今日は彼氏を連れてきたよ」

僕は思わず見回した。薄暗い台所に、彼女の父親らしき人は見当たらない。

金魚がちゃぷん、と音をたてた。

彼女は僕の方に向き直って、嬉しそうに

「お父さん、君のこと歓迎してるみたい」と言った。

意味が分からなかった。それが顔に出ていたのか、冷蔵庫を開けながら彼女はうーんと唸る。

「説明しろって言われても難しいんだけどさ」

手にしたお皿にはウインナーと卵焼きがのっている。朝ごはんの残りだろう。

「私ね、昔から金魚が好きなの。だからね、お祭りなんかに行くとすぐ金魚すくいしたい~って言いだすような子だったんだけど、病気だったのかお世話の仕方が悪かったのか半年以内に全滅させちゃってたのね。だから小学生になる頃には、どうせ死なせちゃうでしょって、金魚すくいさせてもらえなくなって」

喋りながら、お皿の上のウインナーを口に運ぶ。

「だけどやっぱり好きなものは好きじゃない。だからね、お祈りしたの。…多分、神様に。家族が金魚になりますようにって。家族ってずっと一緒にいるものでしょう。だから家族が金魚になれば、金魚とずっと一緒にいられると思って。それでね、一日中お祈りして、朝起きたらお父さんたちが金魚になってたの」

ふふ、と笑って、彼女は齧りかけのウインナーをボウルの中に放る。ぽちゃん、と音をたてたウインナーを金魚が食べる。

理解が追い付かない僕の頭は「金魚ってウインナー、食べるんだ…」などと関係のないことを考える。

「ほんとはお兄ちゃんもいたんだけど、私が中学生の時に死んじゃったからお庭に埋めてあげたの」

 本当に彼女は何を言っているんだろう。冗談にしても意味が分からな過ぎてちっとも面白くない。だけど僕はこの話に付き合ってあげようと思った。

そうなんだね、と適当にうなずくと、彼女は笑った。

「そんなわけないって皆言うのに、君は信じてくれるんだね。嬉しい」

こんな作り話に付き合って、それで彼女が喜ぶのなら安いものだ。

「あ、ちょっと待ってね、お母さんにも紹介しなきゃ」

そう言って彼女は居間にいた金魚を連れてきた。

「ほらお母さん、私の彼氏君だよ」

そう言って「お父さん」の隣にボウルを置き、卵焼きを「お母さん」のボウルの中に入れる。

「…金魚って、そんなの食べて大丈夫なの?」

犬や猫なんかでさえ塩分がどうとかで人間の食べ物を与えるのはよくないらしいのに、金魚は大丈夫なんだろうか。さすがに不安になって僕は尋ねる。

「え、わかんない。でもこの金魚はお父さんとお母さんだもん、大丈夫だよ。君のお父さんとお母さんだって食べるでしょう?」

今朝のだし、冷蔵庫に入れてたし、傷んでもないよと彼女はうなずく。そういうことではないのだけど、と僕は困惑する。

ちゃぽん、ちゃぷん、と金魚が音をたてる。


 ちゃぷん、ちゃぽん、たぷん。


その音を聞いていると、僕はなんだか眩暈がしてきた。気づくと自分の呼吸が浅くて、外の雨音は酷く遠い。

帰ろう。帰らないと。早く。

何故かそう思った。

「ねぇ、ごめん、僕そろそろ……」

「あのね、君言ってくれたでしょう。私のことが好きだって。私とずっと一緒にいたいって」

振り返った彼女は、水が張られたボウルを大事そうに抱えている。

「私ね、すごく嬉しかったよ。だからね、私も君とずっと一緒にいたいなと思って」

 ちゃぷん、ちゃぽん、たぷん。

彼女の後ろで水が跳ねる。

「ね、私ね、君にも家族になって欲しいの」

彼女がボウルを僕に差し出す。

意味が分からない。彼女は一体何を言っているんだろう。

眩暈がする。息がしにくい。

 たぷ、たぷ。

「お父さんとお母さんも、大歓迎だって」

 ちゃぷん、

 ちゃぽん。

目の前で、彼女がにこにこと笑っている。

水の音がする。眩暈がする。

僕はボウルの中の水に手を伸ばした。冷たい水が僕をぐにゃりと溶かすような気がした。


ぽちゃん、と大きな水の音がした。



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