第16話 上野
サエコさんの家に呼ばれ、久しぶりに上野に来た。
昔何度も行き来し、慣れた道だと思っていたが、実際に歩き始めると町並みが変わったからか、どの方向を見ても記憶になく、結局電信柱に付けられた住居表示を頼りに探すしかなかった。
ようやく見つけたサエコさんの家は、昔と変わった様子がなく、少しほっとした。
門に付けられた呼び鈴を押すと、マイク越しの返事なくドアが開かれ、玄関から門までの短い道をサエコさんがとてとて急ぎ足でやって来た。
「久しぶりね」と、サエコさんは門の内側につけられた簡素な鍵を外しながら言った。
「そんなでもないでしょう」と私が返すと、「会うのじゃなくて、この家に来るのが」と言われてしまう。
あの人といっしょになって少し経ったころ、私たちはあの人の実家で、その頃もサエコさんが一人で住んでいたこの家に越してきた。そしてあの人がいなくなってから、しばらくはこの家にサエコさんと二人で暮らしていたが、やがて別々の家に住むことになった。
二人でこの家に越した理由も、その後一人でこの家を出た理由も、まったく覚えていない。ただ、3人でこの家で過ごしていたという箇条書きのような記憶と、なんとなく穏やかで温かな印象が、うっすらと紐付いているのみである。
門のすぐ内側には、昔と変わらずアケビが植えられている。熟れたアケビを夢中になって頬張るあの人を、サエコさんと二人で笑いながら見ていたことを思い出す。
「そろそろアケビがなるころじゃない?」
アケビの実を探しながら聞いた。
「アケビ?いやねぇ、それは枇杷の木じゃない、昔から」
……確かに、改めて見ればそれは枇杷の木だった。ではあの記憶は、どこか別の場所でのことだったのだろうか。
家の中に入っても、特に昔と変わった様子はなかった。しかし、ふと昔の家の中の様子を思い出そうとしてみると、どこに何があったのか、部屋の間取りすら記憶から抜け落ちていた。
“変わった様子がない”ではなく、“3人で過ごした家として違和感がない”と言った方が適切なのかもしれない。
居間でサエコさんと煎餅をかじる。ずっと昔にもそうしたように。
一本の柱に刻まれた傷が目に入る。
刻まれた傷と傷の間隔は、近かったり遠かったりまるで規則性がなく、中には重なりそうなほど近くに二本の傷が並んでいるところもあった。
そして、それぞれの傷の横には“P”と“Q”の文字が刻まれている。
あの人の名を口の中で諳じてみるが、どちらのアルファベットも使われていない。きっと幼いころの愛称から取られた文字なのだろう。しかし、もう一つの文字は誰を表しているのだろうか?
「あの人って、兄弟いたっけ」と聞くと、「なに変なこと言って、いないわよ」とサエコさんは笑う。
「じゃあ、あの柱の傷は、誰と誰の背比べ?」
サエコさんは私が指し示した柱へ顔を向け、しばらく見つめてから、こんな傷あったかしら、とさして不思議でもなさそうに首をかしげた後、バラエティパックに目を戻し、海苔煎餅を探し始める。その様子を見ていたら私も、柱の傷に対する違和感が買った記憶のない冷蔵庫の中のプリン程度に薄れ、バラエティパックの中から胡麻煎餅を探すことに興味が移った。
テレビの横にあった写真立てをテーブルに持ってきて、サエコさんと眺める。この家の前で、サエコさんとあの人と私の3人が並んでいる写真だ。
改めて見ると、あの人の顔ってこんなだったっけ、と思う。サエコさんの顔も違って見える。私の顔も別人のように感じる。
「みんな顔が違って見えるわね」と、サエコさんが言った。
「やっぱりそう感じる?」と応じると、サエコさんは「そりゃね、だいぶ時間が経ったし」と頬をこする。
私も頬をこすってみる。私たちも、知らぬ間に変わっているのだろうか。
サエコさんは写真をつつきながら、「写真もくたびれてくるわよ」と笑った。
……まあ、そんな風に考えられなくもない。
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