36 悔根





 黄色いテープが張られている外側には、人が密集している。

 立ち入り禁止区域として、一時的に警視庁が封鎖している現状であった。

 方々からは次々と文句が上がっており、警察官が対応に当たっている。


 俺はそんな場面を、付近にある家屋の屋根から眺めていた。


「おい、この先に家があるんだが、まだ終わらないのか」

「すみません、連絡がないのでもう少しかかるかと……」

「はぁ……勘弁してくれよ……」


 一人の会社帰りであろう人物が立っている警察官へ問いかけるが、中へ入る許可は当然ながら得られない。見張りが付いているというのも勿論あるが、物理的にも侵入が防がれているのだ。


 テープからは大量の魔法力が溢れており、透明な壁を形成している。それは一ノ瀬ビルを中心に、半円状に展開されている結界であり、術者の解除無くしては出入りできない仕組みだ。


 疲労困憊であるサラリーマンだが、文句を言っても仕方がなく、この場は引き下がるしかない。逆らったとしても、公務執行妨害という一つの罪しか得られないのだから。


『シュテン、あの結界を破ることは可能か』

「ぶち壊すことはできるが、バレないようにやるのは至難じゃなぁ。……そういうのは、茨木嬢の方が得意ではないかのぅ」

「えぇ。私であれば、結界に干渉して一部分を歪めることが可能です。露見せずの侵入も容易いかと」

『……よし、やってくれ』

「わかりました」


 イバラキは魔法力を操作し、結界の術式に割り込む。


 変化は立ち所に訪れ、完璧であった結界の局所に割れ目が生じ出した。

 鮮やかで素早い手腕である。いつ見ても見惚れる程の、洗練された技術だ。


「完了致しました。あそこに飛び込んでください」

『わかった』


 三人で結界の中に侵入する。

 問題は特に起きず、壁など存在しないかの如くすり抜けた。


 その足で、結界の中央まで直走る。


「ヒロ助よ、敵陣に乗り込むのにそんな装備で大丈夫かぇ?」

『……問題ない。動くのに支障はないからな』

「そんな若様も素敵です……」


 俺の恰好は、闘技大会で活躍したサムギョプサル絋雨に様変わりしていた。

 一度家に帰ったのは、服装を変えて姿を偽るためである。

 素顔を見られ、噂を立てられては目も当てられないからな。


 現場へは、魚の妖怪から話を聞いた時点で行くべきだと考えていた。特にこれと言った理由はないが、何となく胸がざわつくのだ。こういう場合、決まって悪いことが起きる。自分に不利益があっては堪らない。確認には赴くべきであろう。

 

 二人が付いてきたのは偶然で、狙ったわけではない。帰宅時にこそこそと着替えていたら見つかってしまったのだ。そこからは興味本位で付き合ってくれている。戦地に赴くのであるから少人数に越したことは無いが、二人ならば逆に戦力となるだろう。個人的な事情に巻き込んでしまって申し訳ないが、非常にありがたい誤算だった。


 まっすぐ進んでいると、直ぐにビルの真下までたどり着く。


『止まらずいくぞ』

「任せぃ」「はい」


 ガラス製の扉に体当たりをし、砕いて中へと侵入した。

 強引な突入で甲高い破壊音が辺りに木霊するが、気にしない。

 隠密という言葉が、三人の辞書には載っていないのだから。


『……ッ』


 建物内に踏み入り、初めに感じたのは鼻を衝く程の激しい異臭だった。ヘルメット越しであるが、確かに感じる程に臭う。まるで、整備の行き届いていない養豚場の肉処理施設の中みたいだ。その事実だけで、二の足を踏む理由になる。


 次いで、強い妖気もビシビシと体感し出す。嫌でも奥で何か待ち構えているのが解った。よって、内部へ入り込むにつれて危険が増すのは解り切ったことだ。戦闘にも発展する可能性がある。興味はあるが、ここは敵の本拠地。あまり長居はできないだろう。


 一方、フロアには約20人の人間が寝転がっている。恐らく、先に突入した警察の特殊部隊だ。装備の隙間から覗く肌は、紫に変色しており、状態の酷いものではドロドロと溶け出して骨まで露出されていた。


「……!下がるのじゃッ!」


 行き成り叫び、俺の前へ飛び出すと、シュテンは持っていた刀を亡骸に向かって振るった。すると、対象は忽ち隊服ごと燃え上がり、消し炭となる。


『が、ぐが』


 呻くような声が、燃えている警察官の方から聞こえてきた。


「……恙虫つつがむしですね。人間に寄生し、毒を植え付け内部から破壊する。……妖怪です」

「数が面倒じゃな」

「ここは私が処理します。若様と親方様は外部からの侵攻を試みてください」

「あい分かった。行くぞ、ヒロ助」


 判断が早く、手慣れている。前に、自分たちは戦を幾度も繰り返して経験を積んだと言っていたが、強ち間違いではないようだ。ここは従うことにしよう。


 一旦引き帰し、外に出る。


「ふむ、上か……離れず付いてくるのじゃぞ」

『あぁ』


 目指すのは上階だ。


 足に気功力を集中し、上空に飛び上がる。高度がある程度上がったところで、真横に魔力壁を出現させ、それを足場とすることで窓を破壊してビルの中へと入った。





「中を案内せい、と言っておるのじゃ。聞こえんかったかのぅ……?」

『は、はいいぃ!案内しますぅ!!』


 三頭身で厳つい顔付きの妖怪はたった今、シュテンに首を絞められている。


「案内“させて頂きます”、じゃろうが。言うてみぃ」

『あ、案内させて頂きますぅッ!!』

「それでいいのじゃ。……それと、童の胸はどうかのぅ?」

『大変慎ましやかで、立派なお胸です!!』

「気持ち悪いわぁッ!!」

『ぼげぇッ!? り、理不尽なぁ!?』


 ……殴り飛ばされていた。


 ビルに入ったは良いものの、構造が分からないことに気が付いた俺達は、知っているであろう人物を探していた。そこで見つけたのが、この妖怪だ。間抜けなことに、休眠ルームのような場所に設置してあるベッドで独り、枕をひっくり返して遊んでいたのだ。これ幸いと忍び寄り、捕獲して今に至る。


 式神契約を結んだ方が早いと思ったのだが、シュテンが喜々として取り組んでいたのでその機会は見送った。別に差し迫っているわけでもないしな。


「なはははは! 気持ちがええのぅ! ……さぁてヒロ助、目的地はどこじゃったか」


 満足した様子のシュテンは本来の目的を思い出したようで、俺に尋ねてくる。


 目指す場所か。


 目指す……。


 ……。


 俺は、何が目的でここに来たのだろうか。

 自らに損害が及ばないか確認しに来た、という理由もあるにはあるが、別に重要ではない。己に降りかかって来た時点で排除すればよいのだから、よく考えると単に二度手間になってしまうからだ。


 ……そうだ。

 そこまで深く考えていなかったのだ。

 気付いた時には、現地へと向かっていた。


 何故、身体が勝手に動いたのか。

 そこには、何かしらの原因があるはずだ。

 それが何なのか。


 妖怪が一般人に紛れて街を蔓延り、市民が危険に晒されているから。


 違うな。


 小鳥が攫われたという情報を式神から報告を受け、助けたいと思ったから。


 違う。


 ピンと来ない。


 なぜ俺は。


 なぜ。


 

 






 小鳥結奈は、後悔していた。


 一ノ瀬との許嫁関係。

 親が勝手に決めたのだと、小鳥は以前口にしている。


 しかし、それは正確ではない。

 対話の席を設けたのは確かに親であったが、許嫁の件を口にし出したのは小鳥からだったのだ。理由は、第一印象からの一目惚れ。外見の好みは勿論の事、実家が大金持ちということもあり、未来まで保証されている。


 玉の輿だと思った。


 親同士の仲も良好だったので、これ幸いと自身の両親に縁談の相談を持ち掛ける。娘の恋愛話に大層喜んだ両親は、先方に話を通すことで瞬く間に婚姻話をまとめ上げた。小鳥の両親が経営している会社は上昇傾向にあり、更に娘は見目麗しい。一ノ瀬側にも、確かにメリットは存在したのだ。


 そこからは早い。

 対面に始まり、正式な婚約は高校卒業後とされた。

 小鳥は踊るような気持ちで、確かに舞い上がっていた。

 自分は勝ち組だと、悦にも浸った。


 ……失敗だったのは、性格を考慮せずに決定したことだろう。


 一ノ瀬に、暴力思考があったのだ。殴る蹴るは当たり前、気分が乗った時には道具を使う傾向さえある。また、性欲の捌け口にも利用され、身体は次第に汚されていった。


 こちらから婚約話を頼んでいる以上、拒否することもできない。縁談を破棄すれば、小鳥側の信用は社会的に地へと落ちるだろう。頭がある程度回る小鳥は、それを早々に理解できた。把握したが故に、両親にも現状を話すことは出来ずにいたのだ。


 だが、それも結局は他人事だ。自分が直接関わっているわけでもなく、辛さの吐露を押しとどめる障害とは成り得ない。小鳥は、何度も打ち明けようとはしていたのだ。しかし、密かに芽生え始めていた「プライド」というハードルが何層にも亘って邪魔をしており、それが話すことを躊躇わせる大きな要因となっていた。


 腹に溜め込むうちに、小鳥の精神は酷く摩耗していった。

 今では危害を加えられても大して反応がない。

 声すらも、上げることがなかった。


 最早、心が壊れてしまったのか。


 そんなことは無く。

 胸では、貯蓄した感情が沸々と音を立て始め、今では毒沼の様に黒く煮え滾っている。


 苦しい。


 悔しい。


 汚い。


 辛い。


 痛い。


 嫌だ。


 こんなのやだ。


 こいつか。


 目の前のこいつか。


 こいつが。


 私をこんな目に。


 あぁ。


 憎い。


 殺したい。


 四肢を捥いで、喰らってやりたい。


 どれだけ美味しい味がするのだろうか。


 あぁ、今すぐにでも。


 殺してやりたい。


 様々な思いが胸中を駆け巡り、心の奥底から、どす黒いものが溢れ出してくる。

 脳は危険な思考へと陥り、今や正常とは言い難い精神をしていた。


『……お前の身体、いただくぞ』

(え、)


 そんな時だ。外から声が聞こえたのは。


 散瞳した小鳥の目に映る、自分に覆い被さる一ノ瀬の影。


 その背後。


 見知らぬ男が何もない空中で直立し、こちらを見下ろしていた。

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