17 味噌ラーメン食い逃げ老翁
補習は困難を極めている。
何故毎回、テストに合格しなければ帰らせてくれないのだ。鬼畜ではないか。
土日以外のほぼ毎日、夏休みなのに学校へ登校している。
例えるなら、奴隷のような生活。
苦しい。
そんな日々の鬱憤を晴らすように、俺は食事へと逃げていた。
学校帰り、必ず寄る場所がある。
路地裏には静かに街灯が灯り、暗い通りをぼんやりと照らす。
賑わいはないが雰囲気は抜群で、進むにつれて濃い匂いが鼻を衝いた。
匂いの下へ辿り着き、“拉麺屋”と書かれた暖簾を押しのけ、引き戸から中に入る。
「……らっしゃい」
入店時、店長の無愛想な声が聞こえ、俺はいつもの位置、カウンター席ではなく奥の座布団が敷いてあるテーブル席に着いた。
屋内は簡素で、流行りのオシャレな雰囲気は存在しない。
掃除はしているのだろうが、建物の時代錯誤感は抜けず、見るからに痛み始めている。
一人で経営しているであろう店長は、愛想が悪くあまり口を開かない。
一目で、人気が出ないだろうと分かる。
物好きしか訪れないだろう。
現に、同じような客としか顔を合わせておらず、新鮮味は薄い。
「醤油一つ」
「……あいよ」
だが、味は悪くない。
調理場は一つの汚れもなく綺麗に保っており、使っている道具にも古さは抱かず、料理へのストイックさが窺える。
作っている姿も熟練の業が感じられ、苦労した背景が透けて見えるようだ。
胃が空腹で音を鳴らした。
早く食べたい。
待ち時間は本棚から流行遅れの漫画週刊誌を取りだし、読み進める。
ラーメンは案外早くできるので、あまり読み進められないが問題ない。開いているというだけで、何処か昔に浸れるのだから。
「……らっしゃい」
漫画を読んでいると引き戸が開かれ、店長の決まり文句が聞こえた。
誰か来店したようだ。
チラと視線を向ける。
カウンター席へ座ろうとしているのは、金持ち商人が着用していそうな上等の着物を羽織った、背が低い爺さん。
小さな身体に対し頭は大きく、また、後頭部が通常よりも肥大している。
手に握られている長細い杖を、足元に立てかけた。
「おっちゃん。味噌ラーメンと炒飯ね」
「……あいよ」
初めて見る顔であるが、気にするほどでもない。
意識の外に持っていくと、再度、漫画へと視線を落とした。
*
「……美味かった……」
息を吐きだし、腹は擦る。
丼の中身は胃へと納まり、食事の時間は終了した。
少し温くなったお冷を喉に流し込み、通学鞄を肩にかける。
お盆に用意しておいた小銭を置き、空になった器と一緒に食器返却口へと届けた。
「ごっつぉーさん」
「……あぁ」
俺は帰宅しようと、引き戸に足を向けた。
歩いている最中、ふと横のカウンター席に目がいく。
そこには、残り物のない綺麗な器だけが静かに位置していた。
爺さんはいない。
いつ出ていったのだろうか。全く気が付かなかった。
しかし、お盆を下げないとはマナー違反であろう。
店長は一人で店を切り盛りしているので見た目よりも忙しい。
俺が戻しておいてやるか。
トレイを持ち上げるが、とあることを察知する。
支払い料金が見当たらないのだ。
机の上にはなく、落ちているのかと思い地面を探るがない。
……まさか。
「……店長、ここにいた爺さんがいなくなるのを見たか?」
「……いや、見てないな」
食い逃げか。
それも、俺や店長に全く悟られずに遂行している。
感心するほど、鮮やかな手口。
……面白い爺さんだ。
良い体験できたお礼に、ここは立て替えておくか。
鞄から財布を取り出し、お盆に乗せる。
そして、次出会ったら、必ず見破ってやろうと心に誓った。
まぁ、早々会うこともないだろうがな。
*
翌日、同じ店舗に赴くと、件の爺さんがカウンター席に座って漫画を読んでいた。
配膳待ちか。
また会うとはな。
僥倖。
「醤油一つ」
「……あいよ」
俺は定位置に着き、注文を済ませてから爺さんを観察する。
「味噌、お待ち」
「カカカ、相も変わらず旨そうだな」
厨房からラーメンを受け取ると、分割させた割り箸で一思いに啜り始める。
特に変わった様子は見られず、普通に食事を楽しんでいた。
……問題は食べ終わった後だろう。
麺はドンドンと減っていき、具を平らげると、スープへと移行した。
丼を傾け、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み込んでいく。
口を離した。
中身が無くなったのだろう。
器を持っていた腕が、段々と下がっていく。
知覚を集中させた。
今度は逃さない。
器が。
お盆に。
接触。
「え」
消えた。
どこにもいない。
……嘘だろ。
ずっと見ていた筈だ。
一時も目は離さず、瞬きすらもしていない。
しかし老翁は、忽然と姿を消した。
画面が切り替わる様に。
蛍光灯の電気がONからOFFに変化する様に。
一瞬で。
――麺を
……横だ。
真横から聞こえてくる。
サビついた首は、ぎこちない動きでそちらを向く。
「醤油は初めてだが、これもよいものよなぁ。カカ」
いた。
対面の座布団に腰を下ろしている。
俺達以外に、客はいない。
つまり、俺が頼んだラーメンだ。
いつの間に。
「馳走になったなぁ」
食らい尽くすと、一言だけ言い残し、音もなく退出していった。
身体の緊張は緩み、脂汗が滲み出てくる。
見えなかった。
それだけが脳裏に残る。
二人分の小銭をお盆に置いた。
まだだ。
まだ、負けてない。
*
それから、ラーメン屋に通う日々が続いた。
補習がない日でも足を運ぶ。もう一度現れないかという、希望的観測による行動であったが、何故か、毎日のように見かけた。
恐らく、ただ飯を食えると踏んでやって来ているのだろう。注文をするタイミングも、俺が到着してからだ。
余裕綽々の態度に腹が立つ。
自分の分だけでも料金を払わせてやりたいが、未だ叶わずにいた。
だが、今日こそは成功させる。
見ることでは認識できないと仮定し、アプローチ方法を変更することにした。
俺は、いつもより早い時間にラーメン屋へと赴く。
案の定、爺さんはいない。
よし、準備開始だ。
部屋全体に魔法力の糸を張り巡らせる。
透明な粒子で編まれており、歩けば糸が切れ、通った場所がわかる。
完璧な探知結界。
これは勝った。
「……らっしゃい」
扉が開かれ、爺さんが入ってきた。
左手にはいつもは見ない酒瓶を握っている。
準備は万端。何時でも来い。
「カカ。糸を張って移動痕跡を調べるか。面白い。が、まだまだ甘いぜ」
一目で暴かれた。
右手の杖を一振りすると、全ての糸が一気に切れる。
駄目か。
悔しいが、まだ諦めてはいない。
ラーメンを注文してもいないのだから、戦いはこれからである。
次の手を思考していると、爺さんは珍しく、初めから対面に座ってきた。
「どうした爺さん。まだ勝負はついていないぞ」
「いやなに、俺はそろそろ地元に帰らなくてはならなくてなぁ。今日は別れの挨拶をしにきた」
別れの挨拶だと。何を抜かしてやがるのだ、この禿げ。
「……勝ち逃げか」
「そんなつもりはねぇよ。ただ、ちと野暮用でな。こちらにも暫くは来られそうにない」
爺さんは懐から二つの酒器を取り出す。
そこに持ってきた酒瓶を傾け、透明な液体が注がれていく。
「これは誓いだ、小童。一時であったが、楽しめたからなぁ。次会った時、またやろうぜ」
延期か。
これは俺にとっても悪くない提案だ。
今のまま毎日続けても、勝てるのかは正直分からない。
確実性を高めるために、空いた期間は十分な鍛錬に充てさせてもらおう。
そして次はボコボコに。
「……仕方ない、いいだろう」
俺は酒器を受け取り、掲げてから口元へ運ぶ。
……酒かと思ったが、中身はただの水だった。
「何故瓶で持ってきたんだ」
「そんなもん、雰囲気に決まっとろう。白けたこと言うんじゃねぇよ」
そういうものか。
爺さんは立ち上がって、俺に背を向け歩き出した。
「じゃあな、小童。強くなれよ」
「お前もな」
「カカ。生意気だねぇ……」
去っていく姿を見つめる。
その背中は思ったよりも大きくて。
俺は酒も飲んでいないのに、何故か温かくなっていた。
「……ん?」
机を見ると、何も乗っていない皿が置いてあった。
普段であれば、餃子が乗っているだろうそれ。
俺は頼んでいない。食べてもいない。
「……は」
食い逃げだ。
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