【二〇一九年二月号】
【二○一九年二月号】
離職者の影のみ映す秋の浜
俺はとてつもなく海が好きで筆名にも海の字をつけている。しかし、働いていた頃にはまっとうに海に行けず、職場の近くにあった薄汚いお台場の海にしか行くことができなかった。だから、退職を決めたらすぐに海に行くことにした。でも、秋の海はIQの溶ける感じのするアッパー系の海とはちがってえらくダウナー系。無職が平日の真っ昼間に海にいると考えだしたらえらく気落ちしてしまった。
そんな内容のこの句はもともと街の句会に出したもので、その際は「浜」ではなく「海」と直接に詠んだ。句会では今井聖さんの本選に入っていたものの「浜としたほうが影の形が際立つ」と指摘され、投句の際にはそのように修正した。海に行ったからストレートに海と書く。単細胞のすることだ。
ポインセチア辞めた会社に照らされて
この句は「真空句会」という句会に参加したときの句だ。真空句会は事前投句をすることが多いのだが、この句を詠んだ回は築地で吟行を行ってそれから句会だった。奇しくも吟行地は昔の会社に近く(実際、辞めた会社が見えた)吟行中に嫌なことを思い出して軽くメンタルにきていた。この句はポインセチアが照らされているともとれるし、辞めた俺が照らされているともとれる(倒置だと判断してポインセチアが照らされているととる人は多いとも思う)。二つの意味をかけているともとれる。結局は内容が読者にゆだねられる形になる。今回自句自解をしているのにこんなことを言うのはもともこもないが、作者のもとを離れた作品を読者がどう読もうが勝手だとは思うのでこの句はこれ以上なにも言わない。
鳥居冷え人は四隅に集まりぬ
因果関係を示してしまったのはいかがなものか。冷えると寒いのでそりゃあみんなで集まるだろう。四隅というのが効いているのかも微妙なところ。ひたすらに象徴性だけが際立っていて、句の内容や奥に潜むものがうまく解釈しきれない句だ。
首に鈴つけ父芒野をひた走る
常軌を逸した人物として父親を扱ったこの句は街の即詠の句会で作った。そのときの題が「鈴」。鈴を誰につけたらおもしろいだろうかとひたすら頭を使った結果、父親につけてみることにした。そして、芒野を走らせでもしたら異常性が増してよいだろうと思った。結果、今井聖さんの本選に入ったので目論見は当たっていたのだろう。しかし、身内をひたすらこきおろしているこの句を親戚、特に父親が読んだら俺を奇異の目で見てきそうだ。句としては良かったかもしれないが、人としては終わっていた。
沈没せし漁船の話おでん食ふ
この句を作った男は鳥頭の俳人だからまだこりてない。「おでん」ときたらそりゃ「食ふ」か「煮る」ものだろう。手元にある歳時記を眺めてみても「食ふ」や「煮る」を使った例句がでてくるでてくる。それに、おでんなんていう庶民的なもんを食いながらする話かというとどうもそうではない気もして、取り合わせとして成功していないようにも思う。おそらく今井聖さんは「沈没せし漁船の話」というフレーズだけで一定の価値はある句だと判断したのだろう。おでんはダメダメだと思う。
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