ディストピアの水曜日の朝


 ――どうにも気分がすぐれない。

 ぱちりと目覚めてゆっくりと体を起こすとそんな思考があった。

 しかしながら、毎日の睡眠時間、栄養価、摂取カロリー、運動時間、その他諸々、きちんと“管理者”の指示通りに行っているはずであり、そうである以上、体調が悪くなるということは決してあり得ない。


「おはようございます」

『オハヨウゴザイマス、管理ナンバーFEW12102049。ばいたるハ今日モ正常値デス』


 ベッドから立ち上がり、目の前のカメラに向かって挨拶をすると、“管理者”からいつも通りの返事があった。正常値ということは、つまり僕が朝一番に感じた不調は勘違いであったということだろう。朝、起床した直後には、肉体にこういった齟齬的な感覚が発生することがあると聞いたことがある。

 ベッドルームからリビングへと向かうと、いつも通りにモニターがついた。モニターの前で直立すると、体操の映像が流れて、それを模倣して体を動かす。十分ほどのそれを終え、モニターが消えたことを確認すると、今度はキッチンへと向かい食事を取る。

 棚から今日の日付が印字された“朝食”を取り出して、テーブルに着いた。

 “朝食”は長方形の形をした一センチほどの厚みの薄青色の塊とそれと全く同じ大きさの透明なプラスチックに白い液体はいったパックが一つになるようにビニールで固定されたものだ。薄青色の塊の方は栄養食でこれ一つで十二時間人間が活動出来るエネルギーが補給できる。

 もう一つの紙パックは栄養補助飲料で、これによって栄養食で足りない栄養が摂取できる。ビニールを切欠から開けて、薄青色の塊を小さくちぎって口に入れた。ぼそぼそとした食感を舌で感じると、今度はプラスチックパックの飲み口を開けてドロリとした補助飲料で喉へ流した。

 ――そんなものがふと頭をよぎった。

 ――何か昔食べたことのあるものを思い出したのだろうか。

 しかし、出生から五歳までを過ごした育児施設を出てからというもの、これと同じ“朝食”か、色違いの“夕食”以外口にしたことはないはずだ。育児施設で食べたことがあるものだろうかとも思ったが、しかし、そういった食べ物があるという情報は聞いたことがない。

 それを疑問に思ったが、気にしないことにして、また食事に戻った。けれども黄色の細長い奇妙な食べ物と茶色くて泥のような異臭のする飲み物が不思議とまた頭をよぎり、それを食べたい、食べなくてはいけないと頭の奥から命令があった。

 ――いったいどうしてしまったんだろう?

 やはり何か体に不調があるのだろうか。けれども、さっきバイタルチェックした管理者は正常と言ったのだ。ならば不調であるはずがない。

 答えが出なかった。だから奇妙な考えを頭から振り払い、食事に戻ることにした。

 不思議と逸馬食べているはずの目の前の薄青色の塊と白く濁った液体が不快に思えてしまった。


 食事を終えると、また立ち上がって今度はクリーンルームへと向かった。そこで排泄と歯の洗浄を終え、クローゼットで就寝服から行動服へと着替えた。行動服と言っても、就寝服と特に違いはなく、少しばかり就寝服よりも造りが頑丈で、背中と胸元にFEW12102049という僕の管理ナンバーとバーコードが入っているだけだ。就寝服をクリーニングボックスに入れて、リビングへと戻る。

 リビングのモニターの前に立ち、「準備完了」と言うと、モニターが再度、起動した。

 僕に割り当てられた作業場所や作業の内容の説明が、映像付きで流れてくる。毎日同じ作業をしているのだから、必要ないと考えたが、この映像を見るのも規則だから仕方がない。

 気が付くと、フゥと深い息を吐き出していた。

 いや、この生活に毎日のことじゃないことなんてない。そんな思考がよぎると、自然に今までしたことのない息が出たのだ。人間にはかつてため息という機能があったと聞いたことあった。これをため息と言うのだろうか。

 深く息を――ため息を吐くと、じわりじわりと嫌な感情が胸の奥からこみ上げた。

 ――今日の作業に生きたくない。

 これまでこんなことはなかったはずだ。こんな感情を抱いたのは生まれて初めてのはずだ。

 しかし、なぜだろう。毎日のようにため息をついているような気がする。

 ため息というものに興味が湧いて、試しにもう一度、息を深く吐いてみた。すると不思議なことにあるはずのない記憶が脳に浮かんだ。毎日、目が覚めた瞬間から面倒がって、毎日決まった泥のような飲み物と黄色い食べ物を食べて、同じ映像を見る。

 その生活は、今の僕の生活と変わらないようにも見えたが、しかし何かが決定的に違う気がした。

 なぜ僕にあるはずのない記憶があるのだ。僕には何かエラーがおきているのだろうか。


 『――デハ、今日モ快適デ幸福ナ生活ヲ』


 僕が自分の不思議な思考に気を取られていると、いつのまにかモニターの映像は終わって、いつもの定型挨拶が流れていた。もしかして聞き逃した部分があったかもしれない。そう思うとひやりとしたが、どうせ毎日同じことを言っているのだから、まぁいいかと思うことにした。

 僕はモニターを離れ、今日の作業のために歩き出そうとした。


『――管理ナンバーFEW12102049』


 移動しようとした矢先、モニターから“管理者”が僕を呼び止めた。

 今までこのタイミングで“管理者”から呼び止められることはなかったから、僕は首をかしげた。


「なんでしょうか?」

『脳波ニ乱レガ見ラレマス。何カ体調ニえらーガ生ジテイルノデハ?』


 その言葉にドキリとした。

 いや、“管理者”が体内に埋め込まれたチップによって、僕達“居住者”のバイタルとメンタルを一括管理していることは、僕も当然に知っている。何か不調を感じれば、必ず“管理者”に報告義務があることもわかってる。

 けれど、見たことも聞いたこともない不思議な記憶のことは、なぜか“管理者”には決して知られてはならないような気がしたのだ。


「いえ、特にエラーは見当たりません」


 僕ははじめて嘘というものをついてみた。意外とそれは簡単だった。

 “管理者”は『ソウデスカ。デハ、イッテラッシャイ。今日モ快適デ幸福ナ生活ヲ』とだけ言った。その答えに僕は安堵したが、けれども、その安堵した思考も“管理者”にモニターされてはまずいのではないかと考えて、思考を正した。

 ――そういえば。

 つい最近、ある“居住者”にエラーがあって“処分”されたのを思い出した。その“居住者”は、指定された作業場所に現れず、起床時間を過ぎても居住区で眠り続けたのだと聞いた。

 そのエラー報告を聞いたとき、なぜそんな不可解な行動をその“居住者”はとったのだろうかと疑問を覚えたが、けれど今は不思議とその理由が分かった気がした。

 ――このままベッドに閉じこもってしまいたい。

 その感情が胸を覆った。けれど、僕は首を振って、靴を履き替え、ドアへと向かった。

 この思考はエラーだ。きっとこんな思考を持っていることが“管理者”にバレたら、僕も“処分”されてしまうだろう。

 僕にはそんな勇気はなかった。僕は小心者というものらしかった。

 そうして、思考を“いつもどおり”正常に戻そうと正した。メンタルヘルスもモニターしている“管理者”に対して、それで意味があるかはわからなかった。

 思考を正したつもりだったが、しかし、一つの願望が僕の中には渦巻き続けた。

 ――起床時間を過ぎて眠り続ける。

 僕にはどこかの誰かのように、それを実行する勇気はなかった。“管理者”に気づかれぬように、それを胸の奥にそっとしまって、僕はドアの開閉ボタンを押した。


 また“今日”という日が始まってしまった。

 ――どうせまた無意味な“今日”が始まってしまった。

 どこからかそんな声が聞こえた気がした。やはり何かエラー生じているのかもしれない。

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