ロキ編
第1話 依頼
築何十年もの年季が入った狭いビルの二階。そこに一文字探偵事務所はある。
以前、勤めていたクラウンで情報を扱っていた事を生かし、恋人と一緒にクラウンを辞めた後、探偵業を営んでいた。だが、不幸な事件により恋人は帰らぬ人となった。今は一人で探偵事務所を切り盛りしている。
しかし、知名度もない一文字の下に依頼が舞い込む事は中々無かった。そして、一文字自身も積極的に活動をする事をしない。
彼は恋人が亡くなってから、探偵業務にかける情熱と気力を失ってしまっていた。
探偵をやめる事を考えたのも一度や二度ではない。それでも、結局彼には他にやることがなく惰性で続けていた。
一文字探偵事務所の朝は早く、今日もそれは変わらない。
辺りが薄暗い朝の六時に一文字は探偵事務所に現れ、掃除を行う。それを終えると、自身が厳選したコーヒー豆を使って入れたコーヒーを飲みながら、朝のニュースを見てひと段落つくのが日課である。
椅子に座りながらニュースを見ていると、星座占いのコーナーがやってくる。
一文字は少し前のめりになって食い入るようにその画面を見る。意外にも、一文字という人間は占いを気にするタイプだった。
画面に表示された星座占い。その一番良い運勢の星座は『蟹座』であった。それは一文字の星座であった。
続けて表示された文章には『思いがけない来訪者。きっとあなたに幸運をもたらすでしょう』との文字が記されていた。
「ふむ……今日は依頼が舞い込んでくるかもしれないな」
コーヒーを一口飲みながら、ぼやく。星座占いで気を良くした一文字は室内の清掃を再び始め、何時客が来てもいいように万全の支度を整える。
ようやく探偵事務所の開店時間となり、一文字は事務所の入口に『OPEN』の札を掛け、開いている事を知らせる。
札を掛け終えた一文字は、自身のデスクに腰をおろして何気なくパソコンをいじろうとした直後、室内に来訪者を知らせるチャイムが鳴り響く。
あまりにも早い来客。一文字は一瞬自身の耳を疑った。
「おいおい、まだ十分も経ってないぞ?」
慌てた様子で一文字は玄関の方へと歩いていき、入口を開ける。そこに立っている人物を見て、彼は複雑な心境になってしまう。
小さな背丈をした女性。短い髪で、鋭くこちらを睨むその眼差しは刀の切っ先を彷彿させる。一文字は彼女と顔見知りの仲であった。
「これは、これは……一ヵ月ぶりですね、九条さん」
「お前に話がある」
「それはつまり、依頼という事で?」
「そうだ」
困ったように一文字は頭を掻く。
九条が持ってくる依頼など、確実に厄介なネタなのは間違いない。このまま追い返すのも一つの手であると考えていた。だが、今日の星座占いの言葉を思い出し、九条の依頼の内容を聞くことにした。
「わかりました、どうぞ中へ」
事務所内に招く一文字。九条はさも当然のように堂々とした立ち振る舞いで探偵事務所の中へと入っていく。
以前と同じように一文字は九条をソファーへと座らせる。そして、一文字は二人分のコーヒーを作り、その一つを九条の前に差し出し、対面に座る。
テーブルの上に差し出されたコーヒーを、九条は手に取る気配を見せない。
「お気に召しませんか? 味は保証しますよ」
「いや、結構だ」
「……信用してないのですか?」
「そういう訳ではない。私はコーヒーが苦手なだけだ」
「失礼、そういう事でしたか。一度お聞きするべきでした」
「構わない。お茶を飲みにここへ来たわけではないのだからな」
せっかちなお人だ、と一文字は心に思う。
「では、ご依頼の方の話をお伺いしましょう。一体どのような依頼で?」
「赤い外套の男を探して欲しい」
九条の発言に、一文字は口にしたコーヒーでむせる。
「外套の男、というだけでは流石に漠然としすぎてますね」
「お前の仕事の依頼を受けた時に、犯人として浮上した赤い外套を身に着けた医者らしき男の事だ」
「それを探し出してどうするのですか?」
「最近起こっている悪鬼の増加。その根源となれば、斬る」
真っすぐ見据えるその九条の眼差しは、一点の曇りなき鏡のよう。そこから意思の固さを一文字は感じ取る。
「物騒な発言ですね。貴女らしいと言えばそれまでですが。しかし、私に頼らずとも貴女には『クラウン』がある。それを頼ればいいではないですか?」
「ダメだ、あれは使い物にならない」
「それはどういう意味で?」
「理由は分からないが、クラウンは外套の男に関しての捜査に消極的だ。一ヵ月前から全く進展がない」
「今、調査中なのでは?」
「お前も知っているクラウンはそんな無能の集まりだと思うか?」
それに対し一文字は、いえ、と一言加えた。
クラウンが何故そのような失態を犯しているのか、既に一文字の中ではおおよその見当がついていた。
「捜査に進展がない理由……知りたいですか? 九条さん」
「お前は分かるのか?」
「勿論。簡単な話ですよ、クラウンは外套の男に関してはノータッチだからです」
「何故だ?」
「外套の男……私が知っている相手ならばその男の名は『ロキ』といいます」
「ろき?」
「世界を終焉に導く者、と称される名前です。私が在籍していた頃、ロキに関しての資料に目を通した事があります。クラウンがその存在を確認したのは数十年も前で、当初はその強大な力故に討伐を試みた事が幾度かあったようですが、その全てが返り討ち。その結果、クラウンはロキに対して接触を止めてしまったのです」
「勝てないから諦めたのか?」
「そう捉えてもらって結構です。ロキに対しての対抗手段がない現状、彼がその気になれば、数秒後にも世界は地獄絵図と化してもおかしくないのです。ならば、彼の機嫌を損ねないようにするのが一番の手段だと思いませんか?」
「思わないな」
否定をした九条に対し、一文字の顔に驚きは無かった。やはり、と言った様子。
「クラウンの行っている事は現状の先送りだ。どうせ直面する問題なのだから、それをどうにかしなければなるまい」
「口で言うのは簡単ですよ。クラウンとて黙って指を咥えていたわけではなく、試行錯誤した答えが今になったわけなのですから」
「クラウンについては分かった。それで、私の依頼をお前は受けるのか? 受けないのか? どっちなんだ?」
苛立ちの含まれた九条の声。その心情は焦りからくるものだった。
クラウンが機能不全に陥っている為、頼りにできる伝手が自分だけなのだろう、と一文字は察していた。そこらの優秀な探偵に頼った所で、悪鬼については髪の毛ほどの情報も得られないであろうからだ。
ここで断れば、九条は黙って立ち去るだろう。そして、一文字はまたゆっくりと気まぐれにくる依頼をこなしていく生活が待っている。
平穏無事な日常。自堕落な生活。
”――――しかし、それでいいのか?”
一文字は自問自答をする。
自身が望んだ幸せな未来は二度と訪れない。その歯車を狂わせたのがロキだと考えれば、未だに燻る憤怒の情が湧き上がる。
失うものはなく、目の前に九条と言う名の手段がある。
一文字は一度溜息をついた後、持っていたコーヒーをぐい、と飲み干した。
「分かりました。貴女の依頼を受けましょう」
「……良いのか?」
「覚悟の上ですよ。ですが、それ相応の報酬を請求させていただきますよ?」
「構わない。では、頼んだぞ」
一度会釈をし、事務所から立ち去る九条。一文字はそれを見届けた後、自身の机へと向かい、引き出しから電源の入っていない携帯と黒一色のカードを取り出す。その黒いカードを携帯に当てると、一瞬にして立ち上がり、電子音と共に何処かへ電話が自動でかかる。
電話の先は元職場。そう、一文字はあろうことかクラウンに連絡をしたのだ。
コール音が二回、三回と鳴った時、相手と繋がる。
『はい、どのような御用件でしょうか?』
「調査の依頼をしたいのですが」
『お名前は?』
「77459203」
『……少々お待ちを』
電話の向こうの女性が言うと、保留音が流れる。この時点で、一文字は半分諦めかけていた。基本、名前を言えば用件の提示を促される。だが、こうして待たされるという事は、通用しなかったのだろう。
(流石に昔の暗号では通用しないですよね)
門前払いを喰らう覚悟で待ち続ける一文字。二十分もの長い時間を待たされ、眠ってしまいそうな保留音がようやく終わりをつげる。
『お待たせしました。あなたの相手は私が受け持つことになりました。ユラさん』
先程の電話の相手とは違う女性であった。だが、今電話の向こうから聞こえてくる声は何処か活発な女の子の声で、受ける相手に好印象を与える声の持ち主であった。その声を聴いた一文字は一瞬目を丸くした。
「その声は、ジュリ?」
『あ、覚えていてくれたんですね! ジュリはとっても嬉しいです!』
電話の向こうで笑顔が浮かびあがりそうな程、その声には喜びの色が含まれていた。
ジュリという女性は一文字にとっては懐かしく、そして意外な相手でもあった。
一文字がまだクラウンの組織に在籍していた頃、自分の部下として働いていたのがこのジュリであった。
外見は小柄で金髪の女性。若い声色と重なり、初見の相手には必ず中学生程度の年齢と間違えられるほどである。一文字もその一人に数えられる。
だが、周囲に対する愛想の良さから、一時期はクラウンの組織でやっていけるかどうか気がかりであった。
「君と最後に話したのは私がクラウンから抜ける時だったかな? 元気でやってるかい?」
『ジュリは何時も元気でやってますよー、今日はどうしたんですか?』
「聞きたいことがあってね。貝塚さんはいる?」
貝塚と言うのはクラウン情報部署の責任者を指す。白髪で強面をした厳格な軍人上がりの男で、その体躯は筋肉質で性格は頑固。責任者である彼にコンタクトをとれなければ、話が先に進まない。
『貝塚さんですか? どうして貝塚さんを?』
「情報部署の責任者だからさ。忙しくて話を聞いてもらえないかもしれないが、何とか掛け合ってもらえないかい?」
電話の相手がジュリというのは一文字にとって幸運だった。もしかすれば会話に応じてもらえるかもしれない、と考えていた。しかし、そんな一文字の期待とは裏腹に電話の向こうではクスクスと含み笑いのような声が聞こえてくる。
『ユラさん、貝塚は依願退職をされて、情報部署の責任者は変わりました』
「貝塚さんが辞めた? あの人が?」
信じられなかった。一文字が知る貝塚は、良くも悪くも軍人気質で、トップに立つその椅子からわざわざ辞退をするような人間ではない事をよく知っていた。
『ユラさんが驚くのも無理ないですね。世の中不思議な事が起こるものですね』
「理由を教えてもらえないかい?」
『何者かが貝塚さんにとって致命的な情報を上層部にリークしたらしいですよ。弱みや秘密が露呈してしまったら、この情報を扱う部署では致命的ですからね』
語る口には雄弁さがあった。そこには、信頼していた上司がいなくなったという悲哀の感情は一切ない。
「そうか、それは残念だ。それじゃあ今の責任者は?」
『それは……私でーす。ビックリしました?』
「君が? どうして?」
『あー、ユラさん酷い。疑ってるんだ』
「それはそうだ。君が優秀なのは知っている。だが、君は在籍している年数が浅い。他にキャリアを積んでいる先輩は多数いる筈だ」
『そういう考えは古いと思いますよ。優秀な人材がトップの椅子に座る。何もおかしくはないじゃないですか』
「君のいう事には一理ある。だが、快く思わない人間もいる筈だ。それこそ、貝塚さんのような事になりかねない。君は大丈夫なのか?」
『私をあんな間抜けと一緒にするんですか?』
一瞬、緊張が走る。
明るい声色は変わらず、ただ、その口調が厳しいものになったからだ。
何があったのか? 一文字には到底理解できないが、今電話の相手は自分が昔知っている彼女とは変わった人物なのかもしれない、と感じ取る。
「そうか。どうやら私の杞憂だったようだね」
『はい。でも、心配してくれるのは嬉しいですよ?』
「だが、責任者であるキミが、わざわざ一般人と同等である私の電話の相手をするのは良くないんじゃないか?」
『確かにそうかもしれませんね。でも、良いんですよ、責任者なんですから。私がユラさんと話がしたいからそうしているんです』
「それは嬉しいね。じゃあ、責任者の君に教えて欲しい事がある」
『ふふ、良いですよ。他ならぬユラさんの頼みですから』
「ロキに関する情報をもらえないかい? クラウンの事だ、今でも逐一調べているんだろう?」
電話の向こうにいるジュリは回答を渋る。
うーん、と悩ましげな声が聞こえてくる。だが、真剣に悩んでいる様子というよりも何処か勿体ぶる感じの印象を受けた。
『そうですね……教えるのは簡単です。ですが、どうしてそんな情報を?』
「個人的な事でね」
『まぁ、深くはお聞きしませんよ。でも、ロキですかぁ……ちょっと厄介ですね』
「厄介?」
『実は今、ロキに関してしつこく聞き回る人物がいまして』
それを聞いて一文字が思い当たる人物は一人しか浮かばなかった。
『その人物が人物なだけに、早とちりな行動を起こしかねないので、情報を出さないように命令をしているところです』
「それは大変だね」
『ええ。ひょっとしたら、ユラさんがその人物に情報を渡してしまうのではないか、という危惧がありましてね? まさかとは思いますが、そんな事されませんよねぇ?』
焦らすような問答に加え、的確な指摘で一文字の痛い所をついてくる。
(なるほど。これはある程度ジュリに筒抜けとみた方が良さそうですね)
だが、それと同時に一文字にはある確信が芽生えていた。
それは、ジュリがそこまで分かっていながら、何故か一文字の要求を突っぱねるような事をしないからだ。
「タダとは言いません。それなりの報酬は用意するつもりです」
『報酬ですか……うーん、例えば?』
「一般的な考えで金銭。それがダメでしたらそちらの願いに応える努力はさせていただきますよ」
『あら、白紙の小切手を渡して下さるなんて、大胆ですねユラさん』
「無茶なお願いは流石に応えられませんよ?」
『それなら、一つお願いがあるのですが、よろしいですか?』
「どうぞ」
『今晩、指定のホテルにやってきていただけませんか? 勿論、おひとりで。情報の方はそちらで渡させていただきます』
「デートのお誘いですか? こちらとしては嬉しい限りですが、そんな願いで本当に良いのですか?」
『ふふ、寧ろそれ以外は受け付けませんので、悪しからず。今夜、後ほどご連絡させていただきますので。では、ごきげんよう』
待って、と一文字が言う前に向こうから電話を切られてしまう。切れた電話をそっと机の上に置くと、長い溜息が一文字から出る。
「参りましたね……金銭の方がずっとマシでしたよ」
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