第26話 ヨレヨレ王さま

 砂が流れるような音が屋敷を包んでいる。

 昨日から雨が続き、夏だというのにひんやりと湿った空気が漂っていた。

 目の前には、ベッドの上でアイブラス陛下がぐったりと横になっている。少し離れて、侍従のモリタさんが控えていた。

 白いシーツに沈んだ身体は汗ばみ、苦し気に息を吐いている。

 いつもはぴったりとした白いドレスを着ているが、今日は同じ白であってもネグリジェに似た、身体を締め付けないふんわりしたドレスだ。

 顔色は青白く、けれど頬はバラ色に色づいている。熱があるのかもしれない。

 常に彼女の身体の前で一番に存在を主張しているおっぱいも、なんだか元気がない。くたりと横にうなだれている。

「ミオ、今日の水浴びは終わったのか?」

 巡幸前に俺の水浴びにやけに執着を見せていたのを思い出し、小さく笑ってしまった。

「ここでは水は貴重ですから、身体を拭くだけにしてます。井戸がないので、雨が降ってくれて助かります」

「では明日は水浴びをするのか?」

「いえ。お城でジャバジャバ使っていた俺が言うのもお恥ずかしいですが、ここでは水は節約しないといけないので。それにここは森が近いせいか、水浴びをするには寒すぎる気がしますしね」

「そうだな。私のように体調を崩しては心配だからな。そうだモリタ、風呂を作れ。湯を溜めて浸かる形にすれば、水の無駄遣いにはなるまい」

「すぐに工人を手配いたします」

 簡潔に答え、モリタは指示を出すべく退室する。


 部屋に二人きりになると、アイブラス王は俺へ細い腕を伸ばした。

「ミオ、寒い。こっちに来い」

 手を引かれ、布団に引きずり込まれそうになる。

「えっ、いや……いいのかな」

 一応、俺は彼女の妃らしいから、同じ布団に入ってもおかしくないのかもしれない。しかし、調子に乗ると侍従のモリタさんに殺されそうな気がする。

 ためらっていると、不満げな声で命令された。

「命令だ。添い寝しろ」

 掴む彼女の指先が冷たい。俺の脂肪の燃焼具合がものすごいだけかもしれないが、体温なら彼女より確実に高い自信がある。

 彼女は己の薄い腹に、俺のぷにぷにな手を押し付ける。柔らかな感触にビビッていると、腹が痛いから温めろと命令された。

「お腹、痛いんですか?」

「魔力の使い過ぎで身体がだるい上に、生理が重なった。天気もここ数日寒かったからな。身体が冷えると、なおさら腹が痛くてたまらん。腰の奥が重苦しい上にズクズクと朝から晩まで響くように痛むし、城はお前がいなくてつまらないし、やっぱり腹が痛くて、昨日はほとほと嫌気がさしたのだ。だからお前のところに行くことにした」

 生理の言葉にどきりとする。

 巡幸で魔力と体力を消耗する疲れも、女性である身の辛さも俺には分からない。

 だが、青白い顔を見れば、相当苦しいのだろうと想像できた。

「温めればいいんですね」

「そうだ、早く私を看病しろ」

 再度命令する言葉は尊大だが、やつれた顔と弱々しい声に、俺に出来ることならなんでもやってやりたくなる。

 おとなしく同じベッドに横になり、寝具を細い肩まで引き上げる。

 向かい合う彼女の胸元から汗の香りがふんわり香った。香水とはちがう彼女自身の香りは好ましく、目を細める。俺の汗の匂いが移らないといいのだが。

 俺の無駄に高い体温を彼女の腹部に分けようと、手のひら全体で触れるようにして温めた。

「今月は生理が重くてな。起きあがるのも辛い」

 珍しく愚痴をこぼす姿に、よほど堪えているらしいと察する。

「俺で出来ることならなんでもします」

「生理が来ると、侍医がため息をつくのが分かるんだ。肩の動きで分かる。後ろを向けば私にバレないと思っているのか、油断している。私が寝ていると思って、扉一枚隔てた向こうで、今月もお孕みになりませんでしたか、そうモリタが言うのも聞いたことがある」

 少しでも彼女の気が晴れるような言葉を掛けたかったが、気の利いた言葉が何も思い浮かばなかった。

「……陛下が最後の王族だと伺いました。井戸の水を確保するための巡幸も命を縮めるぐらい大変だってことも。お世継ぎを切望する人たちの気持ちは分かりますが、陛下が何もかも引き受けねばならないなんて――」

 出過ぎたことを言ってしまったろうかと、俺は口ごもる。

「奴らは私が孕めば、相手がお前だろうと樽だろうと、どうでもいいのだ。昔からそうだ。だが、そんな期待をされて、性欲が湧くと思うか? 黙って苦痛を堪えて横になって、種を付けられろとでも? それを拒否するぐらいの気概はまだ私に残っているらしくてな。どうにもできない」

「嫌なものは嫌でいいと思いますが……」

「それで国が亡ぶとしても?」

 問い返され、ぐっと言葉に詰まる。

 バジリアに契約された胸の印が疼いた気がした。

 言いたいと思った。自分が魔女の転生者であることを伝えたい。

 同時に、いまそれを俺が口にするのは俺が楽になることこそあれ、彼女の苦しみを増やすことだとも思う。

「――」

「忘れてくれ。気弱になってしまった」

「アイブラス陛下……」

「別の話をしてくれ。頼む」

 俺の都合で話すのは違うと己を諫める。

 この国の最高権力者からのささやかな願いを叶えるべく、芸はない代わりに出来るだけ優しく穏やかな声を出そうと努めた。

「王さまの滞在が決まったおかげで、殺風景だった屋敷がたった一晩で生まれ変わりました。準備が間に合って良かったです」

「急に来て、迷惑だったか?」

 珍しくしおらしい言葉につい苦笑してしまう。

「広い屋敷にソミアと二人きりは少し寂しかったので、来てくださって嬉しいです。それに、イモの植え付けも終わったので、いまはこまごまとしたことをしているだけですし。でもモリタさんが昨日、荷物を山と乗せた荷馬車の行列とともにいらっしゃったときは驚きました」

 今日は本来ならたい肥を集めに行ってもらう日だが、そもそもこの雨では無理そうだ。

「モリタが大げさなのだ。王が滞在するのにふさわしかろうとなかろうと、ミオがいれば私はそれで満足なのに」

 王さまは目を閉じ、ホッとしたように息を吐く。

 手のひらの下の薄くて柔らかな腹が、俺の熱を吸い、温まったのを感じた。痛みが和らいだようだ。

 彼女の長いまつげをそっと見つめながら、俺は昨日から今日の午前中まで続いた慌ただしさを思い返した。



 王さまがお城を離れ、ここで静養することに決めたのはたった一日前で、今日の昼過ぎに王室専用のピカピカな馬車が着くまでは嵐のようだった。

 きっと、いまも下の1階では、足音を忍ばせながらモリタさんやソミアたちがせわしなく行き交っているに違いない。

 

 例年、巡幸のあとの静養は北部の別荘となっているそうだが、今年は俺の屋敷が電撃指名となった。

「疲れた陛下の心を癒す、こじんまりとしているが趣味の良い屋敷にします!」

 そう宣言したモリタさんが、俺の屋敷を王さまが滞在してしかるべき邸宅にするべく、自身も動きながら連れてきた使用人たちへ次々と指示を出す。

 カーテンを取り付け、家具やら絵やら花瓶やらを置き、擦り切れた床板の目立つ廊下には赤いじゅうたんが敷かれた。

 王さまの馬車が揺れないよう、集められた工人たちによって道は整備され、屋敷の正面にはレンガ敷きのポーチが作られた。

 使っていない小屋は警備の兵や使用人たちが滞在できるよう整備され、ちょっとした村がいきなり出来たみたいだった。

 

 素晴らしい速さで素っ気ない屋敷が変身していくのは見事だった。

 元々置かれていたシンプルで限られた数の家具はキッチンと使用人部屋にあっさり移動させられ、俺の使っていた布団まで出されてしまった。

 新たに設置されたテーブルには複雑な織り目のクロス、椅子にはクッションが敷かれ、食器やカトラリーは食器棚ごと持ち込まれた。

 食糧庫にもぎっしり食材が持ち込まれ、新しい水甕までいくつももらえた。

 王さま専属の料理人がすぐに仕込みを始め、雨水頼りの環境にため息をついていた。

 幸いにもいまは雨だから数日は大丈夫だろうけれど、彼らが引き連れてきた召し使いと警備の兵たちの数が数だけに、不安は大きい。

 俺のせいじゃないけど、なんだか申し訳なく思ってしまった。


 

 陛下の息が規則正しいものに変化した。

 胸が同じリズムで緩やかに上下するのを、安堵した気持ちで眺める。

 俺も一晩中手伝っていたせいで、添い寝役兼腹温め係を勤めるうちに瞼が重くなってしまう。

 今夜はソミアたちもモリタさんもちゃんと眠れるといいなと思いつつ、眠りに落ちた。

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