第6話 悪事要求される夜1
パンツ、パンツ、パンツ。
パンツを三度唱えて、記憶に刻む。
メモも鉛筆もこの部屋にはない。頼れるのは己の脳みそだけだ。
がんばれ明日の俺! ちゃんと思い出せよ!
気が済むまでパンツを唱え終わると、意識は元の世界に残してきた未練へ向く。
両親に書き置きの一つも残せなかったのは残念だ。異世界だけど生きてるよって伝えられたらいいんだけど。
それ以外の人間関係は、未練がないからいいけど。人間関係はね。
未練があるのは、やはりポテチだ。
――あぁ、ポテチが食いたい。ゲーセン景品にあった限定ポテチのカイザードラゴン味、結局食べられなかったなぁ。
もう二度と、塩気と甘みと軽やかな歯ざわりが三位一体となった至高の食べ物、ポテチを食えないんだろうか。うそだろ……。
辛い現実に涙ぐむ。
絶望的状況だが、どうしてもポテチを諦めることはできない。いつか必ず活路を見出す決意を新たにし、湧き上がる唾を飲み込む。
俺の生活はとりあえず保証されているのだから、悪いこともあれば良いこともあるじゃないかと己を励ます。
使えないっぽいから出てけ! ――みたいな展開にならなくてなによりだ。現代人の俺が二百年前の生活に放り出されて生きていけるとは思えない。
それに魔女の生まれ変わりという不安を抱える身としては、端っこであってもお城にいれば、万が一のときは王様に相談できる環境はありがたい。自分さえ良ければ世界を破滅させてもかまわないとか、さすがに思えないし。
異世界だから知らんとか、非情になれない。後悔に一生苛まれる方が嫌だ。
ちょっと微妙な立場だけど、大事なことを忘れちゃいけない。
俺にとって大切なのは人間関係よりポテチなのだ。
とりあえず、農民の人が薬で使っているっていうイモに掛けてみよう。ポテチへの手がかりだ。
あとはこの世界にポテチ、もしくはポテチを作る環境があるのかってのも気になる。あったかいし、胡蝶蘭みたいな難しい植物を育てるってわけじゃないんだし、たぶん大丈夫だと思うんだけどね。
ぐぐーっと音を立て、腸内を空気が移動する。空っぽだから空気も動きやすいんだろう。
――あとは配られる食料が少ないってとこをなんとかしたいけど……。
ここではどいつもこいつも太っていない。
城の中で見る限り、飢えて痩せているようには見えないが、豊富に食べ物がある世界にも見えない。
パンにはバターの風味が感じられないし、ランプのオイルは魚っぽい生臭い匂いがするから、食用には使えなさそうだ。
油は希少かもしれない。だとしたら、多量に油を使うポテチはひんしゅくものの可能性が大きい。
このままではポテチを作る生活的余裕を得られないかもしれない。
魔力ゼロがバレてすでに軽んじられてるけど、異世界感をちょくちょく出して、存在感を出していく努力をすべきだろうか。
そもそも異世界感って何だ? 胸を張って言えることではないが、ありがたがられるような特技も専門知識も俺にはない。
ふくよかな段々腹を生かし、腹の間にコインを隠す芸なら一度練習したことがあるが、需要はないだろう。
もしやもしや、当分あるいは死ぬまでポテチは食べられないんじゃないだろうか。
そこまで考え、俺はやっと動揺した。
――そのときはポテチを探す旅に出る……くらいの生命力が俺にあるかなー。基礎力が低すぎるからなぁ。
水で空腹を紛らわせたものの、なかなか寝付けない。
前の世界では夜中でもコンビニや街灯の明かりで明るかったけれど、ここでは月がなければまじで漆黒の闇だ。
目を開けても閉じても同じ暗闇に、ポテチの姿を思い浮かべて涙ぐんでいると、ぼんやり明るい光が浮かんだ。
「うぉっ、なんだ⁈」
その光はだんだんと大きくなり、ぽんとランプに姿を変える。見覚えのある形に、びびっていた俺の身体から力が抜ける。
「あー、これってあの人たちの」
昨日俺を取り囲んだ魔術師たちが手にしていたのと同じランプだ。
ゆらゆら揺れるランプの次にそれを持つ手が順々に現れる。フリルの付いたシャツとベストを纏った上半身が現れたが、なんでかボタンがいくつか外され、大きく胸元を開けている。
眉根を寄せ、すき間のないぎっちぎちの谷間から視線を逸らす。
「こんなヤツいたっけ?」
水平にしたラグビーボールが二つ並んで詰まっているような胸のラインに息苦しさを覚える。暴力的なぐらい張り出た胸は迫力こそあれ、それだけだ。
茶の革のショートパンツとむっちりとした太ももが続いて出現し、最後にピンクの髪と瞳のバジリアの顔が現われる。
――この人か。なんだか納得。
昨日着ていた白いローブは儀式用だったのか、魔術師っぽいのは背中のマントぐらいだ。
今夜も彼女は眉間に皺を寄せ、俺を睨んでくる。まだ怒りは続行中らしい。
ランプを持つ手が震えている。震えるぐらい怒っているのだろうか。
「この天才魔術師バジリアを騙すとは! 許しませ――ゴホゴホッ……殺します!」
即決で答えを出した彼女へ、文字通り必死で待ったをかける。
「待った、待った、待って‼ っていうか、すごい咳き込んでるけど大丈夫? 昨日も咳してたよね。もしかして体調悪い? 声もガラガラだわ顔色も悪いわ、そのブルブル震えてるの、怒りじゃなくて寒気のせいでしょ? 熱は?」
「熱などない!」
赤いほっぺで彼女はまだブチ切れている。
「百歩譲ってそうだとしても、これから熱が上がるやつじゃないかな? 仕事より、自分の身体を大事にした方がいいと思うよ」
高校卒業後に両親が田舎に引っ越して以降、一人暮らしを続けて三年。恋人も親しい友人もフィクションの中でしか知らないくらに縁遠い俺は、自分の身体は自分で大事にするしかない。
自分を粗末にして困るのは自分自身だと、何度痛感したことか。
「う……」
大きくぶるりと身体を震わせた彼女を俺の寝台へ座らせ、肩に毛布をかけてやる。俺は椅子っていうか、ただの短い丸太を椅子代わりにしてる感じなんだけど、それに座る。
「魔法って、風邪は治せないんだね」
「それとこれとは別だから! ヘックシュ!」
バジリアは憮然とした表情で、寄せた眉根の皺を深めている。
「言葉にするのはどうかなと思ってたけど、そのカッコ、寒すぎない? 胸とか脚を強調する服装、いまぐらいはやめたら?」
たしかに胸はビックリマークが付きそうな大きさだけど、それより寒そうで心配になってしまう。
「魔術師長さまみたいなこと言わないでよ! これはかわいいから着てんの! 好きなものを着てるだけ! ハーックシュッッくそっ‼」
最後に大きなくしゃみをしたバジリアが悪態をつく。おしゃれ好きな魔術師だけど、口は悪いみたいだ。
ほらね、と言いたいのを堪えて視線で訴えると、悔し気な顔をされた。
「……夜だし、マフラーのアクセントはあってもいいかもね。アンタの忠告を聞いたわけじゃないわよ」
彼女が短い呪文を唱えると、ポンと手元に毛糸のロングマフラーが出現する。オレンジのかわいい色味だ。
なんだかんだ言いながらマフラーをぐるぐると巻いてくれたおかげでぱつぱつの胸が隠れる。身体を温める気になってくれ、他人事ながら安心した。
「脚にもかけといて」
ひざ掛けを彼女に渡すと、怒りが削がれたのか、俺を殺すとかいう物騒な話を引っ込めてくれた。
「悪徳魔女サラマンディアが優しいなんて、気持ち悪いわね。陛下の前でだけ、わざと魔女の気配を消したのかと思ったけど、こうしてみても存在を感じられないわ。世界の狭間で私と話した魔女の人格は一体どこ?」
持ってきたランプを俺の顔に近づけ、覗き込む。
「俺は魔女じゃない」
どれぐらい本当のことを言っていいのか分からず、短く否定してみる。
「あなたが大悪徳魔女サラマンディアの生まれ変わりなのは、とっくに分かってるのよ。正直におっしゃい。異世界召喚の衝撃で魔力が弱ったの? 彼女はあなたの中で眠っているのよね? 私を裏切ったのなら殺すわよ!」
遠慮なく顔を近づけてくるバジリアからのけぞって逃げる。
「俺をこの世界に呼び出したのはバジリア、お前なのか? 救国の乙女をわざと呼び出さなかったってことか?」
「質問で返さないでよ。私の質問に答えなさい! 魔女はどこ? 騙したのなら、相応の報いがあるわよ」
以前は半信半疑だったものの、この世界に飛ばされてからはどうやら本当らしいとぼんやり思っていた事柄が、命の危険という意味とともに現実味を帯びてくる。
俺の知っている事実は『知らない』ってことだけだ。
力も魔力もない自分が魔術師相手に互角に渡り合えるのはこれが最初で最後かもしれない。
「……よく知らない相手に正直に話すつもりはない。お前は――ミルだっけ? このミル国の魔術師なんだろ? 俺がもし魔女の転生した人間なら、お前にペラペラしゃべろうなんて思わないね」
思い切って強気に出るとギロリと睨まれる。
「無理やり真実を話させる魔術だってあるのよ」
風邪で怠そうな目の前の姿と昨日の王様の言葉を思い出し、まだ駆け引きの余地はあると、懸命に考えを巡らせた。
「昨日の王様の話じゃ、魔力を使い切ったからまた蓄えなきゃいけないって話しだったけど、できるの? 君の魔力がまた溜まるまで待つってこと? それまで、俺が君のことを話さないって保証はないよ?」
「話したら殺す! 裏切っても殺す!」
「俺を殺して、君の目的は達成されるのか?」
そこでバジリアがぐぐぐと唸り、仕方ないとため息をついた。
不貞腐れつつも説明してくれたところによると、そもそもバジリアは隣国であるアルティパ生まれの、アルティパの王に忠誠を誓った魔術師なのだそうだ。
ここのミル王国とはライバル関係にあり、その王はこの国の領土を欲しがっているらしい。
「君はアルティパの密偵ってことか」
この国にとっては裏切り者だ。その裏切り者が俺に裏切ったら殺すと脅している、というのがいまの状況らしい。
「魔女を召喚したら、すぐに彼女がこの国を滅ぼす手はずになってたのに。肝心の魔女の意識は消えているし、あなたには魔力すらないなんて、なにもかも予定外よ!」
「そう言われても、俺だって突然召喚されて迷惑してる」
「あなたのことはどうでもいいわ。魔女の話をなさい。正直に話さなかったらタダじゃおかないわよ。私だってこの取引に保険をちゃんとかけてるんだから、私の言うことにおとなしく従った方が身のためよ」
口を開く度に俺を脅すバジリアに、俺も観念して正直に話すことにした。
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