第5話 美しい海

 次の光景は、一際人々の胸を打った。

 広がっているのは、海だった。

 白い砂浜が、どこまでも広がっている。空も、海も、一面の青だった。澄んだ水色の水面がゆらゆらと揺れて、ざ、ざざ、と不規則な波になって、砂浜にうちよせられてくる。

 空と、海の、境目のあたりで、背の高い白い雲が列をつくっていた。

 人々は、まぶたの上に手をかざした。明るい。目がやけてしまいそうに明るい。太陽が、空の中心で輝いている。見たことのない形の木の影が、くっきりと砂浜に落ちている。

「すごい」

「ですねえ」

 それしか言いようがなく、人々はただただ圧倒されながら、前に進んだ。

 感動しながらも、老女は落ち着かなかった。ざわざわとした胸騒ぎを、もてあましている。

 風景は三つある、と事前に案内映像で説明されていた。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、その時が来る。

 生きていれば、いつかこの時が来ると、頭でわかってはいた。天上があるから大丈夫、と安心してもいた。

 でも、その時がくる。本当にその時がくる。

 そわそわと怯えながら、安心してもいた。そして、息子がここにいることが悲しくもあった。

 どうして、タロウがここにくる許可がおりたりしたのだろうか。あの気遣いやのハツコが死んだからだろうか。タロウよりも強く、夫とともに天上に行くことを反対してくれた妻だった。うっかりしていて、頼りないところはあったけれど、優しい人だった。積み木や、絵を描くのが好きだった、あのトモハルも死んだのだという。

 二人とも、あまり怖がったり、痛かったりしなかっただろうか。

 転落事故は、一瞬で色々なものがめちゃめちゃになってしまう。死ぬ人はすぐに死ぬことができるが、生き残ってしまったりすると、ひどいことになった。老女は、病院に勤めたことがあるから、それをよく知っていた。

 映像の砂浜には、白い大きな傘のようなものと、木でできたベッドのようなものが並んでいる。花をそのまま布にしたような、鮮やかな水着姿のガイコクジンが、あちこちで寝転んだり、泳いだり、笑いあったりしていた。

 この映像のなかには、人がいた。一体、いつの時代の人だろうか。

「ハツコもトモハルも、泳いだりすることはなかったのねえ」

 老女は、ひどくさみしい気持ちになった。

「タロウ、お前も?」

「ないですねえ。お父さんとお母さんは、どうですか」

「私もないな」

「泳ぐなんて、そもそも想像がつかないわ。楽しいのかしら」

「なんだか、楽しそうですけれどね」

 天国のような光景のなかに、人がいるのがいけなかったのかもしれない。老女は、ますますさびしい気持ちになった。

 どうして、ハツコもトモハルも、こんなきれいなものを見たり、聞いたりせずにいってしまったのだろう?この泳いでいる人たちのように、ゆったりとした表情になんて、なったことがない。なった人を見たこともない。

 こんな人たちは、一体どこにいるのだろう?

「なんだか、不公平な気分になってきたわ」

「お前、ここにきて、そんな」

「だって、あなた」

 まあまあ、と男は苦笑した。

「考えてみてください、お母さん。僕たち、運はよかったのかもしれないですよ。このクニの人たちの四割くらいは、生まれてから一度も家族をもたずにすごすそうですし」

「そうだなあ。家族をもっても、離れてくらす人のほうが多いしなあ」

 男も老人も、声はひそめていた。

 周りの人たちが、どんな人生を経て、ここまで来たのかわからなかったからだ。

 ずっと一人きりの人もいただろう。今ここで、自分には家族がいてよかった、と老人も男も思っていたが、一人きりの人たちを悲しくさせるのはいやだった。一人になる可能性は、いつでもあったのだ。自分たちは運がよかったと、老人も男も、申し訳ない気持ちでいた。

 人口向上センターで生まれて、教育を受けて、そのまま社会にでるという人が、最近では殊更に多かった。

 それがいいことなのか、悪いことなのか、老女にはわからないし、そもそも役所がどうしたいのかがわからない。

 人口は減らしたくないようだった。どの企業にもお店にも、働く人がいないのだと、テレビが言っている。でも、集合住宅には常に応募が殺到しているし、スーパーに並んでいる食べ物はいつも少なく、ちょっと病気になったりすれば、ガスも電気もすぐに制限がかかった。

 家族がいても、一人きりでも、やることはそんなに変わらない。すりきれるまで働くだけだ。下層民とは、そういう存在だ。

 大人になって、出口のない惨めさを味わうことがなくて、せめてトモハルはよかったのかもしれない。積み木とお絵かきが好きな、小さな子どものままで死ぬことができた。

「ハツコさんは、いくつだったかしら」

「三十一でした」

 男は、妻のくたびれたセーターを思い出していた。こげ茶色の、すっかりぺらぺらになってしまった合成繊維のセーターを、春でも夏になってもハツコは着ていた。

「この人たちは、長生きするのでしょうねえ」

 映像のなかの、くつろいだ人々を眺めながら、老女は言った。

「富裕層の平均寿命は、百二十歳をこえたというしね」

「でも、富裕層の若い人たちは、あまり長生きしたくないそうですよ」

「あら、そうなの?」

「富裕層も、天上に入るように、法律が変わるとか聞いたことがあります」

「入るたって、点数が高すぎちゃあ、許可が下りないだろうに」

「富裕層は、生まれただけで、まず8000点ですからね」

 老女には、思い出したことがあった。

 看護の勉強をしていたときに学んだことは、実際には行われないことのほうが多かった。保険が、どれもこれも適用されないのだ。検査一つするだけでも、莫大な点数がないと、許可がおりなかった。

 けれども、実習中に、一度だけ富裕層を見たことがある。あれは、本物の“老人”を見に行ったときのことだ。

 マジックミラーの向こうに、見たこともないほど清潔な部屋があった。看護の教科書でしか見たことのない、様々な機械が、実際に繋がれていた体。教官が、あの機械のあの数字は何を意味している、あの点滴の成分は、と一つ一つ解説していった。

 後で、なんだかロボットみたいだったね、と言った子がいた。老女は、あまりそう思わなかった。

 もっと現実的で、なんだかグロテスクで、生きていも死んでいるとも思えなかった。

 清潔な部屋の、清潔なベッドの上で、命を繋ぐ機械に囲まれて、天井をみつめていた、曇りガラスみたいな眼球。ゆっくりとしたまたたき。上下する意味などなさそうな、薄い胸。

 実習生たちが、マジックミラーの後ろから退室するのとほぼ同時に、鏡の向こうで部屋のドアが開いた。赤いワンピースの女の子と、青いズボンの男の子。姉弟らしい、おそらく老人の孫だったのだろう。家庭教師らいし、マネキンのような女性に導かれて、恐怖で強張った表情をしていた。

 富裕層は、天上には行けない。

 あの姿のままで、曇った目で、意味のない呼吸をしながら、百二十歳まで生きていく。

 富裕層でなくてよかったと思った、最初の瞬間だった。

 あの姉弟は、何歳くらいになったのだろう?

「でも、富裕層が天上にくるって、なんだか変な感じね」

「そうですねえ」

 親子は、しみじみとそう言い合った。

 それから、ふっと黙った。

 トンネルの出口が見えた。



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