第3話 不要民俗物の記録

 奥のドアを過ぎると、目のくらむような光景が広がっていた。

 ドーム上のトンネル、ガラス一枚向こうに、見たこともない光景が広がっている。

 空が水色だった。

 白い雲が浮いている。

 遥か上空で、真っ白に輝いているものがある。

 地面が真四角に区切られ、そこに合成ネギのような植物が、一面に植えられていた。いつまでも見ていたいような、鮮やかな緑色だった。

 コンクリートの堀に、水が流れている。

 雑草のなかに、黄色い花が咲いている。

 地上でも、地表でも、一度も目にしたことのないような、生気に満ちた光景が、一面に広がっていた。

 老いた人々は、そのなかを、おっかなびっくりと歩いていく。

「すごいですねえ」

 それしか言いようがない、という様子で、男がこぼした。

 隣で、老女がまだ涙にぬれている目を、ぱちぱちとまたたいている。

 道なりに、人の家らしいものが、いくつも並んでいた。それは、人々がよく知る、備え付けの家具がつまった四角い部屋が、ぎっちりと詰められた集合住宅とは、まるで違っていた。

 斜めの屋根があり、広い庭があった。広い庭には、木や花が植えられている。

 開いたままの引き戸や、おそらく縁側、と呼ばれていたのだろう空間から、家の中が丸見えだ。そのなかには、使い方も名前もわからない、たくさんの家具や道具が見えていた。

 誰もが言葉もなく、ざわざわと落ち着かない、羨ましいとさえ思えない奇妙な気持ちで、映し出された光景の美しさに打たれている。

 ざあ、と音がした。景色の中を、風らしいものが吹き抜けた。

 一面の緑を、風が波をつくって渡っていくのに、人々はおお、と声をあげた。

「お父さん。これはもしかして、昔にあった風景、というものですか」

「そのようだなあ」

「あれ、何かしら」

 ある家の庭に、奇妙なオブジェが建てられていた。

 それは、本でしか見たことのない、釣り竿のように見えた。まっすぐに、銀のポールのようなものが立っている。そこに、派手な色彩の動物のようなものが、いくつもぶら下がっているのだ。波のような模様がある、赤や青や黒のそれは、どうやら魚のようだった。

 また、風が吹いた。魚は、ぐうんと波打って、空を泳いだ。

「あれは、何でしょうか」

「こいのぼり、というものだと思うよ」

 老人は、記憶の底から、その言葉を引きずりだした。

「あなた。どうして知ってるんですか?」

「お前の地元には、なかったのかなあ。私も、あれと同じものを見たわけじゃない。子どものころ、スーパーで売っていたお菓子に、あれの模様があったような気がするよ。不要民俗物に指定された何かだろうなあ」

「どうしてまた、こんなものをねえ」

「何かに、役に立つものなのですか」

「いや、そんなことはなかったと思うよ」

 なんでもなく言い合いながら、老人も、老女も、男も、周囲の人々も、この空飛ぶ魚に惹かれていた。

 派手なうろこを持つからだが、風にあおられてばたばたとしているところは、見ようによっては空を泳いでいるように見えた。それは、不思議とわくわくするような光景だった。

 人の波は、こいのぼりがある家の前で、必ず少しゆるやかになった。親子三人も、しばらく空を泳ぐ大きな魚を見つめ、またゆっくりと前に進んでいった。

「昔の人は、こんなに美しい光景のなかに住んでいたんですね」

 ガラスをそのまま水にしたような、澄んだ水の流れを見つめながら、男はしみじみと言った。

「水が、ほんとにきれいねえ。見たことないわ」

「あのネギが生えているようなやつは、きっと、田んぼとかいうやつですね」

「昔は、こういうものがあったんだなあ」

 男は、とうとう最後の別れまで聞かずじまいになっていたことを、聞いてみることにした。

「お父さんとお母さんは、小さい頃は地方都市にいたんでしょう? こういったものを、見たことはなかったのですか」

「なかったねえ。いや、お母さんのほうは知らないが」

「私だって、知りませんよ。地方っていったって、あなた、都会のちょっと規模が小さいだけのようなものよ」

 そうなのですか、と男が言った。

 とりとめもなく、何かを誤魔化すように、噛みしめるよう話を続ける妻と息子を見やりながら、老人は中央都市に移ることになった日のことを思い出していた。

 ある日唐突に、地方に住んでいた人々の何割かは、首都に移らなくてはいけなくなったのだ。老人はまだ子どもであったが、子どもの目から見ても、とてつもない騒ぎになった、と記憶している。

 企業ごとに、移動しなくてはならない人員の割り当てが決まったのだ。転勤が決まってから、父は三日に一度しか帰ってこなくなった。母は、四六時中どこかに電話をかけ、役所にいき、何枚も何十枚も書類を記入した。家の片づけは、学校をやめて外に出ることがなくなった、老人の仕事になった。学校以外の外出許可は、子どもには下りていなかったのだ。

 引っ越しは、夜中の三時だった。げっそりとやつれた母に揺さぶり起こされ、体の倍ほどもありそうな荷物を背負った父に手を引かれて、振り返りもせずに家を出た。

 鉄橋から見下ろした駅は、人でぎゅうぎゅうに埋まっていたのを覚えている。警備員の怒声が、人々を右に、また左に誘導していた。

 列に混ざって、大人に押しつぶされそうになりながら前進している時に、不意に父の携帯電話が鳴ったのだ。家族は、どうにか隙間を見つけて、列から抜け出した。

 母は、時間とともに不安を増していった。父が何を話しているのかがわからなかったが、電話の向こうから泣きそうな声がすがりついていることはわかった。

 父の眉間に、一度だけぎゅうっと深いしわがよったことを、老人は覚えている。

 それはすぐに消えて、老人がまじまじと見つめた父の顔からは、まるで表情というものが抜け落ちてしまった。

「行けない」

 引き継ぎがまだあるらしい、と父は言った。

 真っ青になった母は、父の二の腕を、行かせないと言うようにしっかりとつかんだ。時間を過ぎれば移動できなくなる、そうなれば居住権も失う、と父が言い、妻と子を貨物列車に詰め込んだ。

 父と、父が背負っていた荷物は、ホームに残された。すがる母の手が警備員に叩き落とされ、鉄の扉が閉まり、その向こうで鎖の音がした。

 姿を見ることはできなかった。老人は、母親と抱き合って、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人と荷物につぶされないよう、耐えることに命がけだった。

 駅ごとに人が下りて、やっと充分に息ができるようになった。旅は丸二日続いた。元いた街とそう変わらないごみごみとした街で、元いた家と少しも変わらない狭い集合住宅に住み、母はすりきれるまで働いて、父とはその後二度と会えなかった。

 学校を出て、働けるようになるまで、気の遠くなるような時間がかかった。

 止めたが、母は既定の年齢をこえると、すぐに天上に向かった。

 咳をする日が多くなり、左膝の痛みが年々強くなっていったからだ。もしどこかで倒れたりして、病院などにかかってしまえば、天文学的な金がかかる。そうなれば老人は、政府推薦施設で最大利益労働に従事する日々を送ることになっただろう。

 老人は、今になって思う。

 母を見送るあの日の自分は、息子と似ていただろうか。

 母を見送ってすぐに、政府公認の見合いシステムで、妻と知り合った。地方出身者、という点が同じだった。

 父は来なかったのです、と言うと、私は父も母も来ませんでした、と後の妻はしみじみと言った。

 行方は知れない。今になっても。

 どうなったのだろうか?

 地方には、首都と違って、天上という場所がない。どうやって亡くなったのだろう?死体を人前に見せるだけで、税金がかかってしまうのに。

 誰も払うあてのない税金は、国家への借金として、国民全員で背負っていく。いつのまにか、自分は父の処理代を税金で払っていたのかな、と老人は果敢ない気持ちで考えた。

 言葉少なに、緑と青の景色のなかを、人々は進んだ。

 親子三人も、それにならった。

 見たこともないのに、奇妙に懐かしい映像のなかで、役に立たない魚が空を泳いでいる。


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