第17話 日没(1)

 太祖15年(1220年)初春、ジョチは、後方のオトラル市をチャガタイとオゴデイの軍が落としたという連絡を受けた。スグナク市の安全が確保されたため、計画通り、ジョチはホラズムの主邑ウルゲンチ市の攻略に向かった。

 まず、ヤンギケント市に駐留するキプチャク騎兵1万をアラル海の北側に移動させ、その上でウルゲンチ市に向かわせた。アラル海北方で遊牧するカンクリ部族の中には、ジョチに下るものもでてきた。彼らカンクリ騎兵は後続のジョチ軍本隊が吸収し、全軍アム河下流のデルタ地帯西部に集結した。

 こうしたジョチ軍の動きに、ホラズムシャー朝側は動揺した。アム河中流域からチャガタイ、オゴデイの軍に加え、右翼万人長ボオルチュの大部隊が接近中であるとの報告を受け、堤防を決壊させ、北上するモンゴル軍を食い止めよとしたのだが、完全に裏をかかれた格好だ。

 ウルゲンチ城内にはムハンマドの生母テルケン・ハトンがおり、彼女はカンクリ部族出身で、守兵もカンクリ騎兵だった。豪胆な彼女は言い放った。

「ウルゲンチ城の北側は湿地帯で、そこから攻めることなどできぬ」

テルケン・ハトンは実の息子であるムハンマドとは犬猿の仲であった。もしウルゲンチ城が落ちれば、北のカンクリ部族の遊牧地に逃げればいいと考えていた近臣たちは、もはや南はもとより北にも脱出することができないことを知った。

 ジョチはまったくと言っていいほど、ウルゲンチ城を攻めない。囲みもしないのである。その一方、城内のカンクリ部族の将兵に対し、城壁の外から降伏を呼びかけ、また城内に間者を送り込んでいた。テルケン・ハトン自身がモンゴル側と懇意だという情報まで流された。

 若干の抵抗はあったものの、ウルゲンチ城は降伏し、テルケン・ハトンはモンゴル高原に送られた。ジョチはカンクリ軍を吸収し、また西遼出身の契丹人チンテムルをウルゲンチ市のダルガ(総督)とした。

 堤防の決壊により、アム河の流れが変わってしまったが、そのアム河の南側となったカース市は、チャガタイとオゴデイの軍が占拠した。ホラズム地方は、ウルゲンチとカースの2つの領域に分けられてしまったことになる。

 チンギス・カンは、自分の許可を得ず、ホラズム地方を南北に分断したとして、息子たちを叱った。特に、チャガタイとオゴデイに対し、ホラズム総督はジョチの家臣チンテムルにすることが内定していたにもかかわらず、これを拒んで独自の総督を置いたことを叱責し、定住地を分けるなと厳命した。

 こうしてチンテムルがホラズム総督府を開き、チンギス・カン、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイそれぞれの役人が総督府に出向することになった。モンゴルの行政は複雑化してきた。

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