第12話 建国(4)

 太祖3年(1208年)、ジョチはサルタク・ハトンとオルダをイルティシュの本営に残して、ベクトトミシュとオキ・フジン、そして、生まれてからまだ会っていない次男バトの待つ首都ヘルレン大オルドに戻ってきた。首都とは規模の大きい堅い天幕(契丹語でフス・オルド)のようなものなので、次男はバト(堅い)と名付けた。

 翌太祖4年(1209年)正月、皇帝・章宗が崩御し、帝には実子がおらず、叔父の衛王が即位したと、使者は述べ、耶律阿海が通訳した。チンギス・カンは型どおりにお悔やみを言い、新帝即位を祝った。

 同年秋、チンギス・カンは三度西夏を攻め、城の水攻めには失敗したものの、王女チャカが献上されることで和議が成り、多数の人、ラクダ、鉄などを得て引き上げた。

 太祖5年(1210年)、チンギス・カンは金朝遠征の準備を各所に命じた。かつてモンゴル部族の族長が金側に捕えられて惨殺された復讐だとも言ったが、そんなことは重要ではなかった。チンギス・カンは、金朝を攻める前に、部民全員に馬を配ると宣言したのだった。人々は喜び勇んで戦の準備をし始めた。

 太祖6年(1211年)春、準備を整えたモンゴル軍は沙漠を越えて長城近辺まで南下した。すると、各所にあった牧場と塩の産地、そしてこれらを管理していた契丹人が次々とモンゴル側に寝返った。耶律阿海・禿花兄弟を使って反金勢力を掘り起し、ハッサンのような馬商人を通じて、金朝の牧人や製塩業者と関係を結んできたからだった。馬も塩も、誰もが欲しがる物資であり、モンゴル軍はその両方を一気に手に入れたのである。

 驚愕した朝廷は、大軍をかき集めて長城付近に派遣したが、突破された。その後は城ごとに防備を固める方針を徹底させたが、防御力のない町や村は簡単に占領されていった。

 チンギス・カンと末子トルイは、阿海を先導役として河北・山東制圧を担当した。ジュルチデイ、ジョチ・カサル、そしてムカリ国王は、満州と河北のあいだにある遼西・遼東に入った。

 ジョチは、次弟チャガタイ、三弟オゴデイと共に山西方面を蹂躙したが、ほとんど攻城戦は行わず、ヒト・モノ・カネの獲得に集中した。特に、ジョチは城攻めを回避し続け、チャガタイは不満を述べたが、単独で作戦を行う戦力はなかった。それゆえ、ジョチは臆病だと、近臣や弟オゴデイに愚痴っていた。

 軍議において、ジョチは珍しく長々と言った。

「我が方には攻城兵器がない。また、西夏が持つ火器もない。弩の一斉射撃を浴びると、革製防具では貫かれてしまう。城攻めは避けるべきであろう。味方の被害は最小限ではなく、なしにしたい」

禿花はわざとらしく、しかめっ面を作って付け加えた。

「そのとおりでございます。また、攻めねばならぬ場合でも、兵糧攻めにすべきでしょう」

チャガタイは歯噛みするしかなかった。

 伐金戦は思わぬ展開を見せた。金朝の外人傭兵部隊がモンゴル側に寝返り、太祖10年(1215年)に阿海らは、首都・中都を落としてしまったのである。チンギス・カンはその後の華北攻略をムカリ国王率いる五投下(ジャライル、コンギラト、イキレス、ウルウト、マングト)の部隊に委任し、総引き揚げを命じた。次の戦の準備のためである。

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