第5章

第16話 生まれた余裕



 今日も倉重は念仏のように愚痴を吐き続けている。



「まったく会社の上層部は無能の極みだ。いま、会社がどんな状況にあるか、まるでわかっちゃいない。俺の頭の中にある構想通りにやれば落ち込んだ業績のV字回復は間違いないのに、発表する機会がないからな。

 社長や専務がふんぞり返ってる糞の役にも立たない役員会議に、俺を出してみろっていうんだよ。

 俺は時々、戦国武将の真田幸村の気持ちがわかるんだ。女帝の淀殿や秀頼が、幸村に全権を与えて幸村の構想通りに戦をすすめてたら、豊臣家は滅びてなかった……」、自分に酔いながら倉重は滔々と語る。




 世に言う大阪冬の陣・夏の陣―――豊臣家の存亡がかかったその戦いで、絶望的条件に包まれながら魔術が如き卓抜した采配を振るい、徳川方を震撼せしめた誉れ高き悲運の名将――真田幸村――。



 豊臣方には狂女が女帝として君臨していた。

 淀殿――世はいつまでも豊臣家最盛期のままあると狂信する彼女は息子の秀頼を溺愛するだけで、真田幸村をはじめとする豊臣方に馳せ参じた名立たる武将たちの戦略・構想の巨大な障壁となり続けた。

 しかし幸村はその中においてさえ、決して希望を失わず、その天才性を発揮し、ついには自らが徳川家康の首寸前にまで迫る戦いを繰り広げ、非業の最期を遂げた――。


 

 その生き様は、今もってして多くの日本人に愛されている。

 

 そんな幸村の気持ちを、およそ人間の薄汚さをかき集めたような男である倉重がわかる……。


 もしも淀殿が聞いたら、鬼のような形相で「黙りおれっ糞の役にも立たぬ雑兵がっ!」と激昂しただろう。

 その場面を想像して美弥は危うく噴出しそうになった。




 倉重の悪臭が漂ってきそうな愚痴も自画自賛も、復讐を誓い少しずつ実行に移している中だと、余裕をもって聞けるようになっていた――。




 美弥に気持ちよく、愚痴とも思い上がりともつかぬたわ言をなすりつけた倉重は、風呂に向った。それを見届け、美弥はポケットの中のスマホを取り出した。



 雑兵は、今ごろ真田幸村のような気分で風呂に入っているのだろう。

 何も知らずにそうやって悦に入っていればいい―――。


 

 



―――あれから田所とは数度、肌を重ねた。

 本の貸し借りを口実とした密会は続いている。

 初老の男やもめの田所にとっては、美弥のようなパッとしない女でも肌に弾力のある若い女になるのだろう。しかも知人の妻だ。田所はその度、おずおずと、しかし夢中になって美弥を求めた。それを美弥は受け入れる。



 感じないのはいつもと同じだった。

 ただ、一点、決定的にこれまでのセックスと違ったことがある。

 それは美弥から仕掛けた――という事実だ。



 初老の男とはいえ、一人暮らしの家に年若い女が訪れれば、大なり小なり欲情するものだろう。たとえ自覚できないレベルでも、それは起こっている。さざなみのように。


 それをわかりつつ刺激した――。




 美弥はこれまでの人生で、自分から明確に意思をもって男に仕掛けたことなど決してなかった。


 世の男女がセックスにより得る快楽の坩堝るつぼのなかに、自分は堕ちていけない……それがわかっていたから――。


 

 だが、男たちと寝なかったわけではない。


 おそらく思春期から大人になるにかけて培われる"通常のセックス観"とでもいうものがあるとすれば、美弥にはそれが完全に欠落していた―――。








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