第4章

第13話 未知の領域



 誰かに復讐を誓う――そんな時が自分に来るとは、美弥は考えたこともなかった。



 14歳で強姦という悲劇に見舞われた時は、誰にも相談できず、ただただ怯え、自分が常に薄汚れているという思いに苦しむだけだった。

 その辛さを少しでも緩和するために感情を遮断するだけで精一杯で、復讐を考える余裕など、とてもなかった。

 そして男は消えた――。



 あるいは男が消えずに、そのまま犯され続けていたなら復讐を考えたのか……、それは今となっては美弥にもわからない。





 元々おっとりした性格に相まって、およそ人生でもっとも多感であるはずの時期に感情表現が希薄になり、良くも悪くも周囲と衝突するような事はなかった。だから学校や職場でいじめに遭ったり、誰かに強烈な悪意を向け続けられることもなかった――。



 いつもどこかぼんやりとし、目立たず、話しかければ感じが悪くない程度に対応する害も面白みもない存在として認識されていたのだろう。

 心を通わせないそんな付き合いは、攻撃されることがないと同時に親しさもまた生まれない。自然と一人でいることが多くなり、いつも本ばかり読んでいた。物語の中だけで、閉ざした自分の感受性を思いのまま解放した。



 


 その生き方には、制御できないほどの強い怒りなどが入り込むことはなかった――。倉重が現れるまでは――。



 

 倉重が放つ悪意は、強姦のような荒れ狂った濁流ではなく、やむことなく延々と降り続き人の心を蝕んでいく、いやらしい雨のようだ―――。

 馴染みのない強い怒りを美弥は持て余し、経験がないほどの濃い靄に包まれた。

 ついにその雨は、時間とともにダムの貯水量の限界点を越えた――。




 怒りの発散としての復讐――感情の流れとしては、それを望んでいたのだろう。しかし、これまでの人生に存在しなかったその領域に踏み込むことを無意識下ではためらっていたのかもしれない。それが葛藤となり、一日中、濃厚な靄が晴れず、ここしばらくは大好きな本すら手にとることができなかった――。



 しかし、怒りを抑え込まず怒りと認識し、復讐という未知の領域に踏み込む――、そう決めてから随分と気分が楽になった。濃厚な靄も幾分やわらいだ――。




 いつも手元に置いてある、もう何度読み返したかわからない本を久しぶりに手に取った。


 何十年、何百年も前に書かれたものが何度でも癒し、楽しませてくれる――夏目漱石も芥川も、ディケンズもヘッセも、とうにこの世にはいない。私のことなど知らない。私が本を読んで楽しんでいることも知らない。なのに現実に私の周りに生きている人たちよりも、ずっと私を楽しませてくれる――美弥は不思議に思った――。

 



 母の男たちから逃れるために始めた図書館通いは、その後も美弥の人生の一部になった。

 上京して社会人になってからも、生活になんの余裕もない美弥にとって図書館ほどありがたいものはなかった。

 孤独で希望の持てない生活を忘れ、借りてきた本をウサギ小屋のような部屋で時間が許す限り、読みふけっていた――。



 その図書館通いは、倉重と結婚してから滞っていた。



 割と大き目の図書館が近くにあるのは知っていた。靄がやわらぎ、能動的な気分になったのか、明日は図書館に行ってみよう――そう思った。



 

 この図書館通いが、倉重への復讐の糸口を見出すことになる―――。






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