23/Sub:"デブリーフィング"
天地がひっくり返った。
霊力で編まれた術式を纏った翼が、気流を受け止めて雲一つない青空に白い糸を引く。全身にかかるG。地上のそれの十数倍のそれになった重力に身体を大気に押し付けられながら機動を制御する。急激にピッチアップ。ループの頂点で急激に失速し、そのまま一気に地面を向いた。垂直で行うフック。
視界が地面で埋まる。瞳に映るのは黒く広がる湖の水面。湖面に向かってパワーダイブ。同時にバレルロールをし、マニューバの最後で一気にピッチアップした。水面から五フィートほどを、湖面から盛大に風圧で水しぶきを巻き上げながら飛びぬける。黒い水面に白い一本の爪痕が刻まれた。巻きあがった水しぶきが翼端渦に巻き込まれて二メートルはあろうかという渦を空中で巻く。遠くで見ていたボートに乗ったカップルが小さく悲鳴を上げた。
推力を抑えて上昇。一気に速度と高度が入れ替わる。再び急激にピッチアップ。失速状態の空に躊躇なく飛び込み、一気に反転。ハーフクルビット。速度とベクトルを維持したまま空中でバックする。後退したまま翼を制御して一八〇度ロールし、天地が戻ってくる。
飛行術式に流し込む霊力を急激に増す。無理やり行った逆噴射で空中に一瞬静止、そして再び弾かれたように加速し出す。右に小さくロールし、加速しながら旋回。大きな螺旋を描きながら再び空に駆け上っていく。
旋回半径を次第に狭めていく。速度を殺しつつ高度を増していく。見えない、末広がりで先が鋭くなっている円錐の表面を撫でるように上昇し、やがて頂点に到達した。速度ゼロ。
背中から墜落の様な落下が始まる。背中と翼に風を受けつつ、フラットスピン。青空のど真ん中からやや傾いた太陽が時計回りにせわしなく回り出す。回った回数をカウントし、自分の高度を割り出す。
そろそろか。再び頭を地面に向かせる。ロールに変わったスピンを一瞬で打ち消し、急激にピッチアップ。完璧なU字を描いて再び水面から垂直に立て直す。そして、そこで推力を絞り、空中で静止した。ホバリング。
飛行術式、手足、重心、推力ベクトル。二つ重ねられた球の上に乗るような繊細さで姿勢を制御しながらゆっくりと垂直に降りて降下。湖面に足先が触れそうなところで静止した。飛行術式の噴射光が盛大に水面を波打たせる。ドラゴンブレスを含んだそれは、空気とまじりあうと空中に飛び散った水滴を一瞬で凍り付かせた。まるでダイヤモンドダストのように飛沫が日光に照らされて煌めいた。
推力をわずかに偏向させ、垂直を保ったまま周囲を見回すように一回転。平日とあって人はまばらだったが、わずかにいる人がこちらを驚愕の表情と共に眺めている。
はしゃぎすぎたかな。切り上げて帰ることにしよう。
霊力供給量が跳ね上がる。飛行術式が一瞬で応答し、推力が一気に増した。青白い噴射光が水面を貫いた。まるで水中で爆弾でも爆発したように盛大に白煙が舞う。一瞬遅れて、まるで空に向かって打ち上げられたかのように急上昇。水面を盛大に吹き飛ばしながら一気に大空へと駆け上っていく。わずかな白い飛行機雲を引いて、その姿はすぐに空の中に消えていく。
風が吹いた。巻き上げられた水滴は凍り付き、空へと巻き上げられて、三月の太陽に虹色に輝く暈をかぶせた。やがて飛び去ったユーリが大気をたたき割る遠雷の様な音が消えたころ、滲むように消えていった。
数キロ離れたところにある湖から飛び立ったユーリは、進路をあの元幽霊屋敷にそろえる。数分で屋敷の上空に到達し、周辺の空域に進路が重なる存在がいないことを
着陸地点の屋敷前の道路を再び目視で確認。
減速を続けながら十数フィートまで降下し、着陸地点前でふわりとピッチアップ。翼の迎え角を一気に増して、急激に揚力と抵抗が増す中、減速。早歩き程まで対地速度を落とし、着陸直前で翼を一度大きく羽ばたかせて減速。触れる様な着陸。
うん、調子いい。
飛行術式の光が翼から薄れる中、門を開けて敷地に入る。目に映るのは、なんてことの無い――最初より若干大きくなっている気もするが――綺麗な屋敷。
「アンジー?」
チャイムを鳴らしても返事が無い。ふと、屋敷の裏手で何やら物音。そういう事か。
ユーリはフライトスーツを着込んだまま屋敷の裏手に向かう。すると、そこではアンジェリカが眉間にしわを寄せながら上を見上げていた。何か作業をしていたのだろうか? 赤いジャージに軍手という、汚れてもいい恰好だった。
「アンジー」
「ああ、ユーリ。お帰りなさいですわ」
ユーリの存在に気付いた彼女が彼の方に見直る。
ユーリは彼女が見上げていた方を見上げる。そこにあるのは、設計ミスか何かの様に二階の壁に取り付けられたドア。
先日ユーリが吹き飛ばした一階の祭壇と、その巻き添えを喰らった二階の部屋の、名残だった。
「こういうのを
「とっとと塞いでやりますわ」
アンジェリカが頬の髪を払いながら言った。
結局あの後、ユーリと三姉妹は検査入院。霊障などがないことを確認して二日で解放された。
一方、突入した部隊の調査の結果、屋敷の中から大量の霊障の残滓を含む人骨が発見され、それが問題となった。カギとなる祭壇はユーリのドラゴンブレスで霊障及び霊的実体ごと消し飛び、そこで一体どういった類の儀式が行われていて、どういった実体が出現したのか、それは結局ユーリと三姉妹の証言をもとに推測するしかなかった。
得られた結論は、名称を失った神的霊体を、生贄かそれに準ずるものを用いた儀式で現実に定着させようとした結果、誤って暴走状態に落としてしまいコントロールを失った結果暴走状態が正常状態という形で定着してしまったのだろう、という結論だった。
生憎実体を現実に縫い付けていた祭壇、および儀式の中心となる術式そのものの調査はできなかったため、一体どういう目的で儀式を行ったのか、何が定着してしまったのか、その肝心な部分は不明のままだった。
「でも修理費用は、どうにかなりそうなんだっけ?」
ユーリが言うと、アンジェリカが小さくため息をつく。
「ええ、さんざん搾り取ってやりましたわ」
問題はこの、生命にかかわるレベルの重大な霊障を明らかに認識していたはずだが、顧客に斡旋していた不動産屋の存在だった。
最早昔のように霊障は心理的瑕疵扱いではなく、立派な物理的損害の一つである。行政がそういったものを対応している以上、そういった物件の管理者はそういったものを行政に通報し、対応に協力する法的義務がある。そいう言った意味では、今回の件は殺人犯をその存在を知っていながら野放しにし、そのうえ犯行に協力するようなものだ。
当然、不動産屋には営業停止処分が下され、従業員の幾人かは――詳細な罪状をユーリは覚えてはいなかったが――重軽様々な犯罪の容疑者として逮捕されていった。
不動産屋自体の刑事裁判は現在も進行中だが、それと同時にユーリとアンジェリカの実家が民事訴訟も準備しているという通告に、様々な経緯を経て、不動産屋はこちらとは示談での解決という提案に納得したのだった。
そうして、決して少なくない金銭がこちらに渡って来たのであった。
「どうせだったら、検査入院の時に少しは弱った態度を見せればよかったですわ」
「さすがに無理でしょ。アンジー、ピンピンしてたもん」
あくどい笑みを浮かべるアンジェリカに苦笑いでユーリが返す。実際、検査入院の時にある意味一番重傷だったのは暴走して霊力を大幅に消耗した挙句、三姉妹に盛大に吸血されたユーリであった。診断の時、怪我による失血を疑われたときに三姉妹が一斉に目をそらしていたのを彼はうっすら覚えていた。
ただ、ユーリが病院のテレビで見たニュースの、検挙されていく不動産屋の従業員の中にいた例の案内人の表情が、まるでようやく何かから解放されたような、そんなどこか安堵の様な表情をしていたのが、やけに印象に残っていた。
「まぁ、少なくともこれでこの件は終わりですわね」
「そういえばアンジー、ここで何してたの?」
そうユーリが尋ねると、アンジェリカは振り向いて指をさす。ユーリが見ると、そこには小さな祠があった。かすかに感じる龍の霊力。彼はすぐにそれが、ユーリの伯母の神社の物だと気付く。
「なるほど、分社置いたんだね」
「あくまで仮留め、だそうですわ。いずれ正式なものを置いた方がいいらしいでしょうけど、それほど急ぎではないそうですわ」
「霊地化かぁ。居心地よく感じる人とかいそうだね」
ユーリとアンジェリカは歩いて屋敷の前に戻る。彼女がポケットから鍵を取り出して玄関を開け中に入ると、あそこまで大暴れしたのがうそのようにきれいな玄関ホール。ユーリが人形態に戻り、二人は階段を登って自室に戻った。
部屋に戻ると、アンジェリカはそのまま風呂場に入り、軍手とジャージを脱ぎ始めた。あまりに自然に脱ぎだすのでユーリは一瞬思考が固まったが、アンジェリカに脱いだジャージと下着をまとめて渡されて、ようやく目の前に全裸の彼女がいることに気付いた。
「あ、あ、あ、アンジー!?」
「ユーリ、洗濯をお願いしますわ」
あっけらかんと言うアンジェリカに、思わず反射的に「あっはい」と返してしまう。そのまま彼女は気にせずにシャワールームに入るとシャワーを浴びだした。シャワーヘッドから出てくるのは、湯気を纏った透明な湯。
ユーリは混乱した頭のまま、彼女の衣服を持って風呂場の洗濯機に洗濯物を放り込む。タッチパネルの表示を押して、『汚れ多め』『節水』を選択。カートリッジの洗剤と柔軟剤が自動で消費されて洗濯機が回り出した。シャワールームから手の届くところにある位置の洗濯機の上には彼女の着替えが丁寧にたたまれて置いてあった。すでに準備してあったようだ。
「って、そうじゃなくて、アンジー!」
「ユーリ、あなたの足が汚れているから洗ってから部屋に入ってくださいまし」
「あっはい」
混乱する頭を正論で殴られつつ、ユーリはバスタブで、土踏まずのサポーターのようになっているフライトスーツの足部分を洗う。
「ユーリ、出たら買い物に行きますから、準備しておいてくださいまし」
「あ、うんわかった」
ユーリは考えることを、やめた。
ユーリがのろのろと風呂場から出ていくと、静かな部屋が広がる。アンジェリカがシャワーを浴びる音だけが静かに風呂場から響いている。アリシアもアリアンナも所用でゲルラホフスカ邸に戻っている今、今屋敷にはユーリとアンジェリカしかいなかった。
彼はふわふわした足取りで窓際に向かうと、フライトスーツのまま窓際の椅子に腰かけた。窓の外に広がるのは、やや日が傾いた青空。長くないうちに沈むだろう。散らばる積雲がスカイブルーに白いまだら模様を描く。上空も凪いでいるのか、まるで絵画のように変化はない。混乱していた頭が静かに落ち着いていく。
どれだけこうしていたのだろうか? 風呂場のドアが開く音でようやく現実に戻ってきたユーリがそこでようやく窓から目を外すと、風呂上りのアンジェリカが呆れた様子でこちらを見ていた。
「ユーリ、また空を眺めていたんですの? はやく着替えてくださいまし」
「あ、うん。ごめん」
言われてようやく腰を浮かせて立ち上がった。自分の着替えを取りに行こうとして――ふと、思いついた。
「ねえアンジー」
クラウドカバーは
「一緒に、飛ばない?」
その一言に、アンジェリカは一瞬目を丸くして、それから満面の笑みで頷いたのだった。
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