15/Sub:"霊障"

「そういえば早速だけど、今日の夕飯、レバニラでいい?」


 ユーリが尋ねると、アンジェリカは不思議そうな表情を浮かべる。


「何を言ってますの? 今日は引っ越しパーティの予定ですわよ?」

「おっと」


 予想はできただろう。確かに、パーティをやるならレバニラと言うのはどうにも合わない。しかしレバニラを無性に彼は食べたかった。血的な問題でもある。

 折衷案を考える。案はすぐに思いついた。


「なら、中華料理でどうだろう?」


 するとアンジェリカは、すこし驚いたような表情を浮かべ、それからいいですわね、とほほ笑んだ。


「そうしましょう。なら、献立を考えないといけないですわね」

「結局、何人でやるつもりなの?」

「いえ、わたくしたちだけでやるつもりですわ。皆でのはもうしましたし」


 言われてみれば。引っ越し先が決まってからユーリの家で行われた宴を思い出す。母さん酔っぱらってたなぁ……。

 都合よく回転テーブルなんかがあればいいな。あとで引っ越しの荷物を漁ろうと考える。

 ともかく、すべては始まったばかりだ。




 宴もたけなわに、楽しい時間はあっという間に過ぎる。ユーリとアリアンナが腕を振るって作った中華料理の数々によるプチ満漢全席はぺろりと平らげられ、後片付けも済んだ今、それぞれの部屋で就寝の支度中だった。

 ユーリは結局こうなったのかと諦めの表情を浮かべながら、アンジェリカユーリの部屋の椅子に腰かけていた。ゲルラホフスカ邸の彼女の部屋からそのまま持ってきた椅子や机は、装飾に凝っているだけではなく、椅子の中央がなだらかにへこんでいるなどの工夫もなされていて、木の椅子ながら硬さを感じさせずに座り心地がいい。

 風呂上りの彼は深緑の作務衣に着替えている。シャワーの熱もそろそろ冷めてきて、3月のやや肌寒い空気が皮膚を撫でる。しかし壁にしっかり断熱が施されているのか、そこまで寒いと感じなかった。

 風呂の中からアンジェリカの鼻歌とシャワーの音が響いてくる。彼女は別に使っても構いませんよと言ってはいたが、さすがにあの遮蔽性ゼロのシャワーを使っている最中に洗面所を使う度胸はユーリにはなかった。

 ユーリは時間を持て余す。

 フライトスーツの整備でもしようか。そう思って立ち上がった時だった。


「きゃっ!」


 アンジェリカの声が風呂から響く。弾かれたようにユーリは駆けだした。洗面所と風呂場のドア。ええいと割り切ってドアを開ける。


「アンジー! 大丈夫!?」


 洗面所に飛び込むユーリ。目に飛び込んでくるのは、シャワールームで血まみれになったアンジェリカ。ひゅっと息が詰まる。心臓を握られたような感じだった。


「アンジー!」

「落ち着いて、落ち着いてくださいまし!」


 スプラッタな見た目に反してアンジェリカが割と大丈夫な様子で叫びかえす。その声を聴いて、ユーリは頭に昇った血が降りていくのを感じた。


「アンジー、それは一体……」


 ユーリの問いに、黙って彼女はシャワーのヘッドを指さした。見ると、ヘッドから赤い水が噴き出ていた。


「早速、ですわね。わたくしは別に何ともありませんわ」


 シャワーから出る血を手に受けながら彼女が言った。実際、彼女の手に溜まったシャワーの湯は血のように赤く染まっていた。


「えっと、その、大丈夫なの? それ」


 ユーリは心配になって尋ねる。どう見てもまともなお湯ではなかった。果たして浴びて大丈夫なのだろうか。間違いなく霊障の類だろう。


「特に、霊力は感じませんわね」


 アンジェリカが手に受けた赤い湯を鼻に近づける。


「色が変わっただけで、臭いも特にありませんですし」


 ですけれど、とアンジェリカは続ける。


「こうしてみると、ヴァンパイアらしくてなんだか興奮しますわ」


 薄く笑いながら、赤いシャワー、まるで血の雨のように見える中で彼女はくるりと回る。白い肌に赤い雫が映えて、妖艶な雰囲気を醸し出していた。


「ポジティブだね……」


 げんなりしながらユーリがつぶやく。自分の時じゃなくてよかった。心からそう思った。きっと自分の時に起きていたら驚愕と恐怖のままにドラゴンブレスを撃っていたかもしれない。

 そうしているユーリを見て、アンジェリカはふとつぶやく。


「そういえばユーリ、いつまでもここにいていいですの?」

「!?」


 ユーリの顔が急に赤くなる。アンジェリカは面白がって、赤い雫に濡れた躰のままシャワールームの透明なガラスの壁に、妖艶に笑いながら体を押し付けた。彼女の豊かな体がガラスに押し付けられて、どこか淫らにつぶれる。そっと、いじわるそうにガラスに口づける。ユーリの顔の赤みがさっと増した。茹蛸のようだ。


「ふふふ、ユーリ、一緒に入りたいならそう言ってくれれば――」

「ごご、ごめん! 外に出るから!」


 ユーリが慌てて出ていき、勢いよく洗面所のドアが閉められた。

 もう、恥ずかしがらなくてもいいのに。あまりのオーバーリアクションに、満足はしつつもどこか物足りなげに感じながらアンジェリカは赤いシャワーを浴び続ける。

 それにしても、思ったより早かったですわね。

 アンジェリカはシャワーから流れ出る赤い色のついた湯を見つめる。何かしらの霊障はあると思っていたが、よもや引っ越し初日から出るとは思わなかった。アンジェリカ達の霊力が凄まじいから、ユーリの父が施した処理の影響か、その両方なのかはわからないが、少なくともこの屋敷に巣食うなにかは今のところ水に色を付ける程度の霊障しか起こせないようだ。だが、この霊障はエスカレートしていくだろう。もとより、こういった場所に限定して起こる霊障などそういうものだ。

 早いうちに何とかしないといけないですわね……。

 アンジェリカは霊力をあふれさせてシャワーヘッドに触れる。赤い湯は一瞬で色を失い、透明な湯が流れ出してきた。身体に付いた赤色を流していく。

 シャワールームから手を伸ばしてタオルを取る。取ったところで、ユーリにわたくしの身体を拭かせるのもいいかもしれませんわねと思いつくが、また今度にしましょうと考え直した。悪戯やアピールも鮮度が必要だ。

 身体を拭いて髪をドライヤーで乾かし、いつぞやのベビードールを身にまとう。これでユーリ君を撃墜しなさいおとしなさいと言って母親から渡されたものだったが、単純な揶揄う要素の他に、薄手の生地はユーリの体温を感じられてアンジェリカにはお気に入りだった。

 驚かせよう。そう思って彼女はベビードールの上からバスローブを纏う。


「ユーリ、出ましたわよ」

「……わかった、歯磨くよ」


 洗面所から出てユーリに呼びかけると、まだ火照っているのか、顔にうっすら朱の刺したユーリが洗面所に入れ違いで入ってくる。雑念でもそぎ落とすかのように彼は歯磨きを強めに行うと、洗面所から出る。アンジェリカはすでに歯を磨いてあった。


「アンジー、出たよ――おおぅ……」


 出たユーリを待ち構えていたのは、テーブルと椅子を窓際まで動かし、そこで優雅にグラスで水の入ったグラスを傾けるアンジーの姿だった。彼が洗面所に入った時とは違って、バスローブを脱いでいる。つまり格好は例の姿。彼は頭が痛くなりそうだった。彼女は夜空を眺めていたが、ユーリが出てきたのに気づくと、優雅に水を飲み干し、椅子から立ち上がる。


「さて、ユーリ、夜も更けてきたし寝ましょうか」

「その恰好はもう固定なんだね……」


 先日とは違い、ユーリはあきらめ気味に受け入れて素直に、彼女家から持ってきた天蓋付きのベッドに入る。アンジェリカも寄り添うようにベッドに入った。

 お互いベッドで見つめ合う格好に。アンジェリカがユーリに身を寄せた。離れてとユーリは言おうと思ったが、男としてそれはどうなのだと思って素直に身を任せた。


「ふふ、ユーリ、温かいですわ」


 アンジェリカの嬉しそうな微笑みに、彼は思わずドキリと胸が鳴った。ああもう普段意地悪なのにこういうときだけほんと可愛いんだから……!

 ユーリはもやもやし、アンジェリカは彼のぬくもりを感じて幸せ。このまま緩やかに眠りに包まれようとして――。


「あ」

「!?」


 アンジェリカは、嫌なものが目に入ってしまった。ユーリの後ろにたたずむ、口と目が限界まで開き切り、そこにあるのは空虚な闇。色の抜けた皮膚を覆う白い衣服の様なものは、元が何であったかどうかはわからないほどボロボロで、乱れた黒い長い髪が伸びている。頭は左に傾き、不自然にがくがくと動いている。

 どう見ても怨霊の類だった。

 小さくアンジェリカはため息をついた。それと同時に、非常に腹がたった。


「あぁもう」

「?」


 ユーリが疑問符を浮かべる中、彼女は上半身を起こす。相変わらず彼の後ろに立っている怨霊を忌々し気ににらみつける。びくりと怨霊が身を震わせる。いつしか彼女の瞳が紅く輝いていた。


「ユーリ、なんともないですから後ろを見ないでくださいまし」

「え、後ろ? 何が――」

「い、い、で、す、ね?」

「アッハイ」


 苛立ったアンジェリカの口調に気おされて彼は素直に従う。彼女は小さくため息をつくと、左手で居合の様な素早さでもって、怨霊の顔をわしづかみにした。


「ああもう、せっかく人がいい気持ちになっていたというのに……!」

『……!?』


 顔面をいきなりわしづかみにされた怨霊が慌てる。アンジェリカ左手を振り払おうと手を掴むも、触れたそばから彼女の、吸血鬼の霊力が侵食してきて手を放す。

 アンジェリカの、霊力を纏った左手の握力がどんどん増していく。怨霊は声にならない絶叫を上げた。霊体となってからと言うもの、怨霊を傷つける存在はなかった。

 それが、例外が現れてしまった。

 今や怨霊の頭を掴む手はその細腕とは違って万力のように怨霊を締め付ける。ユーリは相変わらず何が起きているかわからずに混乱している。

 ミシミシと音が鳴る。霊体が悲鳴を上げ始めた。必死に逃れようとするが、まるで固着してしまったかのように動かない。

 アンジェリカの深紅に輝く瞳が、冷酷に怨霊を貫いた。


「消えなさい」


 アンジェリカが握力を増した。怨霊の絶叫。そしてそれはまるで音声ファイルの再生を停止したかのようにすぐに途切れた。入れ替わりにユーリに聞こえたのは、まるでスイカを車でひき潰したかのような生々しい音。そして、急に何かから解放されたような息のしやすさが身体を覆う。


「い、今のは……」


 いそいそとベッドに戻ってきたアンジェリカにユーリが尋ねる。心なし、彼女の顔はしていた。


「虫が入ってきたようなものですわ」彼女が答える。「そのうち、何かしないといけないですわね」


 果たして後ろに何がいたのだろうか。自分は耐えられるのだろうか。そしてよりによってなんで自分の後ろに出たのだろうか。何かいろいろな何かを恨みながら、心なしアンジェリカに近く寄り添いながら、ユーリは眠りについた。

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