08/Sub:"ホロウ・ニンバス"
禍々しいなぁ。
その屋敷を真っ先に見たユーリが思った感想はそれだったが、彼もそれを、わざわざ事故物件を買いたいという注文に応じてくれた、三〇歳半ばほどの男性の不動産屋の案内人の前で口にわざわざ出すほど馬鹿ではなかった。
壁の白いペンキは定期的に塗り直しているのだろうか、剥がれや汚れはなく、窓ガラスにも汚れは見受けられない。屋根にも禿げは見られないし、庭もさすがに芝生までとまではいかないが少なくとも雑草を伸び放題にさせない程度には手入れをしているようだった。
「うへぇ……」
しかし、ドアや窓枠の隙間からまるで染み出すように漏れ出る霊力を、ユーリははっきり認識していた。まるで中にぎゅうぎゅうに詰まった汚水がちょっとした隙間から漏れ出るがごとく、毒々しい色の霊力が漏れ出てきている様子に思わず彼は、喉元を嫌な汗が垂れるのを意識した。
「いやぁ皆さんお目が高いですね! この屋敷なんですけどもう昔にちょっと事故がありましてね! えー。それはもう風評って言うんですかね!? 日当たりもいいでしょうに、立地もいいのにですね、もうね! 誰も買わないんですよこれが! いやいや過去のことは過去の事って言うじゃないですかほら、やっぱり風聞ってのは怖いですね!」
「ええそうですわね」
長袖のシャツに手袋、ロングスカート、ベレー帽と落ち着いた格好をしたアンジェリカが抑揚なく返事する。聞いていなかった。
聞いてもいないことをべらべらと、ひっきりなしにまくしたてる案内人だったが、背後に何やら黒い靄のような霊力がまとわりつくように浮かんでいるのは、ユーリと三姉妹にははっきりと見えていた。
そして、それがおそらくこの物件関連ということも。
思わずユーリがアリアンナの方を見ると彼女と目があった。
彼女はユーリを捕獲した時と同じ、深紅の、大まかにY字型に見えるモノキニの上から、胸元までしか丈のない半そでのジャケットを羽織り、黒い長手袋とガーター付きサイハイソックス、ホットパンツにブーツと、露出度の高い恰好だった。
あの日と違うのは、つばの広い帽子をかぶっていること。そして、腕に銀色に鈍く光る腕輪を付けていることだった。
ユーリはアリアンナに近寄ると、案内人に聞こえないように意識して小さな声で彼女に話しかける。
「アンナはずいぶん気合入ってるね」
「まぁ、そりゃ、ね?」
彼女の恰好はただの衣服ではない。
彼女の霊力を高伝導繊維に蓄積させ、物質化させた彼女の文字通りの『勝負服』だ。服はまるで彼女の身体の一部であるかのように彼女の動きを妨げず、また彼女の表面に薄い力場を張り彼女本体を守り、そして何らかの術式の行使を補助する。
「一応、念のため。備えておくには事欠かないからね」
彼女は腕輪を軽く撫でながら言った。
屋敷のドアのカギを開けるのに妙に手間取っている不動産屋の案内人の背中をじっとりとした視線でアリシアが見守る。そうこうしているうちに彼の努力が実ったのか、ガチャリとドアが開く。
あふれ出るどす黒い霊力。足元が生温かいヘドロに突っ込んだかのような不快感に覆われる。思わずユーリの身体から反射的に霊力があふれ出た。まるで煙が風に吹き散らされるかのように、彼の周りから黒い霊力が消えた。
「うひゃあっ!?」
「「「「!?」」」」
案内人が叫ぶ。とっさに彼以外の全員が彼の方を向くと、ユーリを中心に広がった霊力が冷気となり、地面を真っ白に霜で覆いながら広がって案内人の足元に達していた。よく見ると彼の革靴も霜が降りている。
「あ、すみません、僕が思わず霊力出しちゃって……」
「あ、いえいえお気になさらず、ささ、どうぞ、中へ!」
ユーリは案内人に促されるままに中に入る。まるで泥の中に突っ込んだような感触。吐き気すら覚えるほどの、もはやこれは霊力ではなく、『怨念』であった。案内人にはどうやら霊力は見えていないようだ。霊感は低いらしい。
あまりにも濃いその怨念はもはや透明なもやというよりは、もはや生木を燃やした時の様な黒い煙のようで、それがエントランスに充満している。霊力の向こうを見ようとしても、霊感が強いユーリと三姉妹には、なにも見えなかった。
「前が見えませんわ」
アンジェリカがあっけらかんと言う。
「ユーリ、吹き飛ばせますの?」
「家ごと凍ってもいいって言うなら、今すぐにもしたい気分だよ……」
げんなりしながらユーリが言うと、アンジェリカは仕方ないですわねと目を閉じた。小さく呼吸する。
にわかにジワリと彼女の身体から血のように赤い霊力が立ち上る。周りの怨念がそれだけで吹き散らされるようになくなるが、彼女は止まらない。ゆっくり彼女が瞳を開けると、その瞳は血のように、しかしまるで月のように赤く輝いていた。思わず霊感の低い案内人も、さすがに何かを感じたらしく、ユーリ達に続いて屋敷に入ろうとして立ち止まる。
彼女が小さく息を吸い、そして霊力を開放した。
彼女の頭上に薄い光輪が浮かぶ。
いくら霊感がない、そしてヒトである案内人の彼も、その名称は一般教養として知っていた。
シュワツマン・アウレオラ発光。またの名を、『
アンジェリカの赤いホロウ・ニンバスが輝きを増す。同時にまるで突風をもろに浴びたかのような感覚を案内人は覚え、思わず尻餅をついた。
爆風のように、彼女の鮮血のように紅い、透明な霊力は屋敷内を駆け抜け、ヘドロの様な怨念を焼き尽くしていく。霊力が落ち着くころには、怨念のせいでまるで黒い煙が充満しているようだった室内はクリアな視界になっていた。
アンジェリカの頭上の光輪が消えると、彼女は小さく息をついた。
「さて、こんなものでよろしいでしょう」
大丈夫ですかとユーリが案内人に手を貸して立ち上がらせると、彼は驚いたといった表情で冷や汗を浮かべていた。
「いや、い、今のは一体」
いつの間にか彼にまとわりついていた黒いもやの様な霊力もなくなっている。どうやら一緒に吹き払われたらしい。
案内人が何かしたらしいアンジェリカに話しかけようとして、彼女が振り返ると、彼女の赤く輝く瞳に思わず息をのんだ。
「
「そういうことですわ」
あっけにとられる案内人にアンジェリカが言った。
「いや、いるというのは知っていましたが実際に見るのは初めてです」
案内人は掻いた汗を拭きながら言った。霊力にあてられて少々ふらついている。
「まぁ、あまり多い種族でもありませんから」
「ご家族も吸血鬼で……そちらの方は……」
彼がユーリの方を見る。ユーリの足元はまだ霊力の残滓が残っているのか、白い霜が降りている。
冷気を操る最もポピュラーな種族。彼の頭の中でそれにユーリがあてはまる。
『雪男なのか、珍しいな』
案内人は心の中で納得するが、ユーリは何やら誤解されているような雰囲気を察する。言うべきか一瞬悩むが、黙っていることにした。吸血鬼よりレアな種族の『ドラゴン』なんて言った日には話がこじれそうだな、とユーリは一人思って複雑な表情を浮かべた。
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