05/Sub:"青色"

 クラウチングスタートの姿勢から四肢に力を籠める。同時に翼に通す霊力を増していく。高音が高くなり、その姿はまるで空母のカタパルトで射出される瞬間を待つ戦闘機のようだった。

 張り詰めた弦が放たれるかの如く、その瞬間は唐突に訪れた。

 静止状態から駆け出すユーリ。翼は推力を生み出して一瞬で彼を重力の楔から解き放つ。翼を覆うべーパークラウド。急上昇。翼端が糸を引いた。

 バックブラストと翼が大きくかき乱した大気で、庭に粉雪の様な霊力が吹きすさぶ。上昇を続けるユーリの、空気をたたき切る翼の音と、霊力による飛行術式のくぐもった高音がゲルラホフスカ邸の庭に残響のように響いていた。


「うわぁ相変わらずすっごいね」


 窓から身を乗り出して見ていたアリアンナが吹きすさぶ風に髪を抑えていた。彼女の視線の先ではユーリが加速しながら上昇を続けていく。霊力によって輝き、白い雲の尾を引いて空に昇っていく様はさながら流星か、それとも彗星か。


「というか姉さん、さっきはよくユーリにぃがフライトスーツ探してるってわかったね」


 するとアンジェリカは得意げに胸を張って言う。


「当たり前ですわ。何年ユーリの悪癖に付き合ったと思っていて?」

「悪癖って――まぁそれもそうか」


 アンナの見つめる先。ユーリはすでに、吸血鬼の彼女の視力でも視認しづらくなるほどの速度と高度に達している。


「ユーリにぃ、空飛ぶことに関しては目がないもんね」

「ほんとうですわ!」


 アンジェリカは呆れたように言った。


「レディーを放り出しておいて一人でダンスなんて、紳士の風上にも置けませんわ!」


 そうぷりぷり怒り出すアンジェリカをアリアンナは苦笑いしながら見ていた。部屋のドアが開くと、アリシアがゲーム機を抱えながらすごい音がしたけどなにがったのと少し慌てて聞いてきた。アンジェリカがユーリですわと答える。


「相変わらずすごい音ねー……」


 やれやれといった様子でアリシアが乱雑にアンジェリカのベッドに座り込むと、彼女はゲームを起動した。


「お姉さま、あまり皺にはしないでくださいませ」

「わかってるわよ、お、ついたついた」


 そんな姉の様子を見届けるとアンジェリカは再び窓の外に目をやり、飛んでいくユーリを見つめる。小さな、だけど強く輝く光はぐんぐんと上昇し、雲を超え、今や蒼穹の彼方へと達しようとしている。そこは宇宙の渚、この世とあの世の境界、世界の法則の向こう側。

 ユーリ、あなたは、わたくしを置いていきませんわよね?

 アンジェリカは、流れてきた雲に隠されそうなほど小さくなった彼の輝きを、少し不安の籠った瞳で見つめた。

 ユーリはほぼ垂直に上昇する。音はとっくに後ろに置き去りにした。境界層を制御し、空気抵抗を最適化し、重くて分厚い大気を一本の剣となって切り裂いていく。

 対流圏の安定層はまるで重い壁のようにユーリに空気抵抗となって押し寄せる。ペース配分が重要だ。彼は推力と速度、気圧のバランスを意識しながら上昇。マックスQを超えた。


 高度30000フィート。対流圏界面トロポポーズを突き抜けると、今まで身を切るような冷たい、肌を撫でる気流が次第に温かくなっていくのを感じた。もうこの付近はオゾン層だ。

 空の色はスカイブルーから色を変えていた。水蒸気やエアロゾル、分厚い窒素酸素混合大気のレイリー・ミー散乱やスペクトル吸収で色褪せていない、大気の窓の外を覗いて初めて瞳に映る、本当の空の色ダークブルー

 気圧はすでに数十ヘクトパスカルまで落ちている。ユーリは翼を包む気流の力が弱くなるのを意識し、翼をゆっくり広げながら速度を増す。極超音速域に到達。断熱圧縮された空気が一気に数百度まで熱せられ、彼の身体に炎のローブとなって纏わりつくが、彼のドラゴンの身体はその程度の熱にはびくともしない。炎の流星となった彼がオゾンの過熱でまるでミルフィーユのように成層を成していた成層圏を貫いていく。

 空の色は深く、深く、溶け込むような暗い色へと変化していく。ギラギラと地上のそれよりも輝きを増した、太陽の光すら飲み込んでしまいそうな、虚無の青色。

 高度120000フィート。もはや大気は地上の数百分の1しかない。翼が大気を切り裂く感触ももうほぼなくなった。ユーリはゆっくり翼へ流し込む霊力を落としていく。推力ゼロ。滑空。

 数ヘクトパスカルの大気が頬を撫でる。彼はゆっくりロール。彼は瞳を閉じて物思いにふけった。

 アンジェリカとの婚約、同じように慕ってくれている姉妹。そして同棲生活。希望に満ちた彼女らとは違い、どこか怖気づくように尻込みし続けている自分。

 僕って、いったい何がしたいんだろうな。

 漠然とした不安が胸の内に淀む。思わず深呼吸して成層圏の澄んだ空気を吸った。オゾンの匂いが混じる大気。肺の中がまるで透き通るような感触。だけど胸の内の淀みは消えてくれない。

 アンジェリカはきっと進み続けるだろう。僕はどうだ? きっと彼女に

 いつまでも子供ではいられない。いつかは自分の道を、人生を、運命を、自分で決めなきゃいけない時が来る。なにも考えずにいたかった。ただ何も考えず、この虚無の青色ダークブルーに包まれていたかった。

 頬を撫でる気流が弱まっていく。ゆっくり目を開けると、丸みを帯び、最早直線ではなくなった地平線が目に映った。速度がさらに落ちていく。100ノット、90ノット、80ノット。翼が空気を抱えきれずに気流が翼から離れていく。そうして彼は揚力を失った。推力を切った今、彼は重力に支配された。

 高度139000フィート。成層圏ストラトスフェアの、上の上。ここから先は中間圏メソスフェア。大気はさらに薄くなる。宇宙という広大な、無限の海への渚。その前にぼんやりと存在する境界、成層圏界面ストラトポーズ

 上昇が止まる。ユーリはかすかな大気を翼で受け止め、ピッチアップ。まるで地球を背に仰向けで寝るような姿勢に。無重量。

 ゆっくりと手を虚無に伸ばす。青みがかった虚ろな透明はどこまでも深く、深く続いているようで、手が吸い込まれていくような錯覚に陥るほどだった。

 ユーリの心は今や透き通っていた。その底に、淀みを残したまま。

 背中から墜落のような落下が始まった。ハンマーヘッドターン。伸ばした手から虚無が遠ざかっていく。ユーリは地上に視線を向ける。日本列島はまだ冬の残滓を残し、白を纏っていた。大気が渦を巻きながら、雲を伴って北から南まで、巨大な擾乱を描きながら春を運んでくる。虚無へと続くダークブルーとは違う、営みにあふれるモザイクの様な大地。目の前一杯にひろがる大地の輝きに、思わずユーリは目を細めた。

 ユーリはすっと翼をすぼめた。自由落下は薄い大気の中ろくな抵抗も受けずに延々と加速していく。翼が再び大気を掴み、彼に揚力の加護を与えた。

 とうとう音速を超える。希薄なソニックブームが成層圏を揺らした。まるで壁に突っ込むかのように大気がどんどん濃くなっていく。追い抜いた音に追い越される。生暖かった風は今や身を切るように冷たい。

 オゾンの匂いが薄れていく。それと同時に、吸い込む空気が湿り気を帯びる。戻ってきた。

 高度5000フィート。翼をゆっくり広げて気流を受け止める。抵抗と同時に揚力が増し、彼はピッチアップ。左に軽くロールすると、反時計回りにらせんを描きながら降下していく。進路上に雲。

 濡れるのは嫌だなと何となく思い、進路を変える。旋回を緩め、視線を動かして雲と雲の隙間を確認する。牧草地にまばらに群れる羊の様な雲の、十分大きな隙間を、上から下に向かって突き抜けた。雲の層があった高度を突き抜ける際、一瞬湿った空気を吸い込んで思わずユーリはむせそうになった。

 はじめは『細かい模様』だった景色が『町並み』に変化していく。ゲルラホフスカ邸の位置を町並みと見比べていて、彼はふと空を見上げる。広がるのは、スカイブルー。

 どこか逡巡するように目をそらして、彼はゲルラホフスカ邸へと進路を変えた。


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