04/Sub:"クラウドカバー"
もう昼過ぎになろうかという時間。アンジェリカの部屋ではアリシア、アンジェリカ、アリアンナ、そしてユーリが集まっていた。皆それぞれ、普段着の、アリシアは寝間着からジャージに。アンジェリカは長袖の深紅のワンピースに。アリアンナはホットパンツにへそ出しのノースリーブに、それぞれ着替えている。ユーリは寝間着である深緑の作務衣のままだった。
4人はそれぞれアンジェリカの部屋に置かれた、テーブルの周りに置かれた椅子に座っていた。ユーリだけが頭を抱えて机に突っ伏していた。
「さて、さっきまでの話を整理するわよ」
アリシアが言った。
「まずは、アンジーとユーリの婚約が成立するための条件。それは、私たち4人で3年間、与えられたお金だけで生活すること。バイト等は問題なし。4人で使えるのは2000万円」
アンジェリカが机に置いた紙に書き込んでいた内容をペンで指しながら言う。
「4人で2000万円。つまり一人当たり3年間で500万円、そして一年あたり160万円、ひと月に換算すると約13万円と少し。ここから家賃、光熱費、食事代、水道代、税金、学費、交通費、社会保険料、医療費、通信費、家電の費用を引く必要がありますわ」
アリアンナがアンジェリカの紙に目を通す。
「学費は公立高校だから、強いて言うと目立つ出費は修学旅行や部活くらいかなぁ。最後の一つはまぁどうにでもなるね」
ユーリは相変わらず頭を抱えたままだが、うつ伏せになりながらもそれに反応した。
「問題は家賃だよ……一人頭2万円くらいに抑えないとほかの出費が圧迫され出すよ……?」
「そうですわね……一人頭2万で合わせても300。ですけれど家賃の相場で、4人で住めるそれなりに広い賃貸となると8万で借りられる物件はありませんわね」
アリアンナが、30センチほどの長さで、ボトルのキャップほどの太さの円筒形の黒い容器を机に置く。容器についた取っ手を引くと、A4用紙を縦に2枚並べた大きさほどの電子ペーパーが姿を現した。
彼女が側面にある電源スイッチを入れる。本体が起動すると電子ペーパーに企業ロゴが浮かび、ホーム画面が立ち上がった。そしてインターネット画面を開き、電子ペーパーをいじり出す。画面には賃貸の情報が並んでいた。スクロールして見ていくが、それなりに広い賃貸となると、それこそひと月14万などもする。駅前などに近づいていくとひと月16万になる部屋もあった。
「これに保証費や敷金礼金が追加かぁ……そうなると安く見積もっても500万は2000万の中から飛んでくねー」
500万、500万ですの……そういってアンジェリカは器用にペンを回しながらつぶやく。初期金額の4分の1は大きい。
そんな中突っ伏していたユーリは一つのことを考えていた。あれ? これひょっとしてこの試練が失敗すればアンジーと結婚しないで済むんじゃない? ここで足を引っ張るようなことをするべきか。彼の中の悪魔が嘯く、楽になっちゃえよ。同時に天使が囁いた、頑張ってなんとか足引っ張って人生の墓場から逃げよう! あれ? 言っていること逆じゃない?
ユーリはそっと、思考に没頭しているアンジェリカを腕の隙間から覗く。そこに映る彼女は、まぎれもなく真剣な表情である。その瞳には、何としてもこの試練を乗り越えたいという確固たる意志を感じた。
彼は、その瞳を見て先程まで、なんとか足を引っ張ってやろう、そんなことを思いついてしまった自分に嫌気がさす。恥ずかしさを消すように、心なし深く頭を抱え込んだ。
「むう……難しいね。これ失敗しちゃったらいっそユーリにぃ拉致して逃げちゃおっか」
「それもいいですわね」
「監禁場所なら任せなさい」
聞こえてきた会話ですでに逃げ道はふさがれていた。抵抗は無意味と知って、ユーリは目の前が暗くなりそうだった。さっきまでの感情を返せと、抱える頭がさらに深くなる。指が髪に食い込んだ。
「うーん、とりあえず通信費はなんとか削れそうだなぁ。ネット出来ないのは困るけど」
アリアンナが言うと、アンジェリカは待ちなさいといった。
「費用自体を削っていくのは最後の手段。今はとにかくどの費用をどれだけ抑えられるかを考えるのが先ですわ」
「でも今でもかなりカツカツよ? どれかの出費をなくさないと厳しくない?」
アリシアが言う。しかし、アンジェリカはそれも手段の一つですが、と付け加える。
「ですがそうやって引き算で考え続けていたら、どんどん犠牲にするものは増えていきますわ」
ですので。アンジェリカはユーリの方を見る。ユーリはいつのまにか顔を上げ、頭を抱えていた腕は机で組み、半分のぞかせた顔から半開きになった瞳でこちらをじっと見ていた。その瞳は、彼女が何を言うかわかっている、そう語っているようだった。
「そうやって作った『限界』は、越えることは容易ではないですわよ? なら、私たちが今すべきことは、安易な逃走と切り捨てではなく、わたくしたちに何ができるかを考えること。それが最優先ですわ」
彼女がそういうと、アリアンナはそれもそうだねと笑い、アリシアもネット使えないのは困るわねと言って苦笑いを浮かべた。
「どう思うかしら、ユーリ?」
アンジェリカがそうユーリに微笑みながら言うと、ユーリは少し頬を赤くして目をそらした。そして小声で小さく僕もいいと思うよとつぶやく。
議論はそこで再開し、様々な案が出続ける。ユーリは時折口をはさむものの、結局あまり積極的に会話には参加しなかった。
そうしているうちに時刻は昼を過ぎる。昼食をはさんで、テーブルの上にはサンドイッチが入っていたバスケットが空になっておかれていた。ユーリの父が差し入れたものだった。
「うー……ん!」
アンジェリカが背伸びをする。長い時間同じ姿勢でいたからか、背伸びをすると肩が鳴った。
「姉さん、なかなか纏まらないねー」
「そうですわねー……」
結局煮詰まった案はなかなか纏まらず、テーブルの上に置かれた紙や電子ペーパーには様々なアイデアや計画が書きなぐられては射線で消されていた。アンジェリカはすっかり冷めきった紅茶を流し込む。すでに香りは落ち着いてしまって、ただ渋みが口に広がった。
ユーリはそっと3人を見る。皆が疲れ切ってはいるものの、あきらめていないのはすぐに分かった。
彼は小さくため息を漏らす。吐息にドラゴンブレスが混じり、空気と混ざって白く凝結した。部屋の光を浴びてわずかにダイヤモンドダストのように煌めく。
「――ちょっと、頭冷やしてくる」
ユーリが立ち上がると、アンジェリカも頷いた。
「そうですわね。ここらで少し、休憩としましょうか」
「うー……ん、じゃあ私は気分転換に新作のホラーゲームでもやろっかな」
ゲーム機を取ってくると言ってアリシアが立ち上がって部屋から出ていった。ユーリはアリシアについて行って部屋を出ようとして、引き止められた。
「ユーリ、お探しの物はここですわよ?」
「……!?」
そうアンジェリカが言うのに反応してみると、彼女の指さした先に、ユーリが今求めていたもの――高空長距離超音速飛行用の、特性フライトスーツ――の入ったコンテナボックスが、そこに置いてあった。
「そ、それがどうしてここに!?」
「昨日の時点でお義父様が置いてってくださいましたの」
畜生。せっかく家に帰って少し一人の時間を楽しもうと思ったのに。彼は痛みそうになる頭を抱えたい気分になりながらコンテナボックスを抱える。
「どこに行くんですの? ここで着替えていけばいいですわ」
「へ?」
アンジェリカの発言に思考がフリーズする。なにいってんだこいつと言わんばかりの視線を寄越すと同じくなにいってんだこいつと言わんばかりの視線を返される。頭がおかしくなりそうだった。
「そうだよ、今うちのなかボクらの引っ越しの準備で大忙しなんだから。着替える場所なんてないよ?」
「と、トイレがあれば……」
「トイレを長い間占有されるのは困りますわ」
正論だった。ぐぅとユーリがうめく。
「ええいまどろっこしいですわ! アンナ! 剥きますわよ!」
「よし来たぁ!」
「何言ってんの!?」
ユーリにとびかかるアンジェリカとアリアンナ。必死の抵抗もむなしく、あっという間にアンジェリカのベッドに押し倒され、身ぐるみをはがされた。ベッドから漂ういい匂いに思わずドキッとはしたが、それも一瞬のことであった。
アンジェリカはコンテナボックスからフライトスーツを取り出す。グレー一式のそれの各所には、ぴっちり隙間なく閉まるポケットや、各所に黒く薄いハーネスが付いていた。
「さて、剥いたら着せる番ですわね! ほらユーリ、足をあげてくださいまし」
「もう好きにして……」
パンツ一枚になったユーリが観念して足を上げると、アンジェリカがフライトスーツを下から着せていく。ハーネスの位置に気を付けながらユーリの身体に合わせてフィッティングさせていき、首まで上げた。
「最後はユーリが自分でやってくださいまし」
「うん」
薄手に見えてこの
ユーリはこれを軍用の「お下がり」として、10万近くもしたこれを、貯金をためて買った。飛行補助の機能は民生品にするために意図的にオミットされていたが、彼にとってそれは問題なく、むしろ補助術式は足かせにしかならなかった。
12歳の頃にこれを購入して以来、補修を繰り返しながらこの補助服を使いづづけている。
「いい加減それもオーバーホールが必要ではなくて?」
「またお金貯めて買うよ。アルバイトもできるようになるし、きっと前よりは……よっと」
繊維に霊力を流すと、スーツは彼の身体に密着するようにフィットする。体の各所につけられたハーネスを締めたり緩めたりしながら微調整を繰り返していく。
調整が終わると、ユーリは霊力を開放した。ぶわりと部屋全体に凍えるような冷気にも似た霊力が一瞬で広がり、思わずアリアンナは身震いした。ユーリの姿が変わっていく。少年の姿から、空を切り裂いて飛ぶ一人の
翼をばさりと動かすと。彼の霊力がまるで鱗粉のように舞った。幻想的とも見える光景に、アンジェリカは思わず小さく息をのんだ。やはりいつ見ても、美しい。単純な美しさではなく、ひたむきに空を目指す、機械的な美しさすら含んでいる。
ユーリはフライトスーツの左腕の端末を起動した。トランスポンダー、
「じゃあ、行ってきます」
そういってユーリは部屋から出ていく。その背中に向かってアンジェリカが言う。
「ええ、行ってらっしゃい。夕飯までには戻ってくるんですのよ」
「――うん、わかってる」
「行ってらっしゃい、ユーリにぃ」
部屋を出てエントランスに降り、すれ違ったメイドさんに挨拶をすると玄関を開けて外に出る。太陽がまぶしい。
庭に出る。広い庭は離陸には最適だった。翼を大きく広げて飛行術式を展開する。翼が白い霊力を纏った。ユーリはクラウチングスタートの姿勢をとる。
ふと、窓が開く音。首だけ動かして見ると、2階の窓からアンジェリカが身を乗り出して叫んでいた。
「ユーリ、
日差しに照らされて元気に笑う、そんなアンジーの吸血鬼らしからぬ様子にユーリは苦笑いを浮かべると、頷いて小さくつぶやいた。
「ラジャー、ユーリ、テイクオフ」
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