02/Sub:"ハードランディング"

 母親から逃げたユーリは遷音速を維持しながら街の上空を飛び続ける。慌てて緊急離脱したはいいものの、これから先どうすればいいのかのアイデアは彼の中に全くと言っていいほどない。しかも無一文である。どうしたものかと彼は音速の気流の中で小さくため息をこぼす。とりあえず航空免許を持っておいてよかった。ユーリは左腕に巻き付けられた電子航空免許の端末を意識する。

 ともかくこのまま飛び続けるわけにはいかない。せめて着陸しようと思い、進路を変更する。彼の翼が空気を受けとめ、あふれ出た空気が翼端から漏れ出て小さな渦を作り、それが白い雲の糸となってまだ冬の寒さの残滓が残る三月の空にたなびいた。ゆっくりと旋回して翼端から空中に飛行機雲ベイパートレイルのらせんを描きながら降下していく。着陸地点を視線の先にとらえながら周囲の障害物に注意し降下とともに減速、速度を殺していく。


「みてみて! ドラゴンの子が飛んでる!」

「わぁ……私初めて見たかも。すごい力強く飛ぶのね」


 接触しないように軌道をずらしてすれ違った、通学途中と思われた天狗と鳥人ハルピュイアと思われる二人組の女子高生がそんな会話をしていたのが耳に入った。存外この格好は目立つのであまり空中に長居するのはよくない。着陸して一息ついたら早めに移動した方がいいかもしれないと彼は考える。

 着陸地点の公園のグラウンドに進路をそろえて周囲に障害物がないことを確認する。翼を大きく広げると同時に飛行術式に霊力を流し込み、推力を増して揚力を維持する。青白い噴射光が地面の砂埃を巻き上げ、それが翼端渦に巻き込まれて左右対称に一対の渦を巻いた。上体を起こし、両脚を前に伸ばして着地に備える。着地。殺しきれなかった速度が地面に二本の線を盛大に刻んだ。

 ユーリが着陸のために大きく広げた翼を畳むと、ふと公園の反対側に座っている少女がこちらを見てぽかんと大きな口を開けて見ていた。その周囲にいた小学生ほどの年齢のような子供達が親と思われる親から離れて一斉にこちらにすげーすげーと言いながら走ってくる。

 天狗や鳥人ハルピュイアはしばしば見るが、ドラゴンは一生に一度会えるかどうかといったレベルの珍しさである。そして大型の鳥のそれの様な鳥種の人外の飛行に比べて、まるで大型戦闘機の様に力強く空を舞うドラゴンは、かなり目立つ方であった。ユーリは小学生に群がられながら、先程からこちらをぽかんと見ていた少女に会釈をする。すると少女もあっけにとられつつもこちらに会釈を返してきた。同じ中学の制服を着ていたので同級生だと思い挨拶したが、高校でも会えるだろうか。

 親御さんがユーリにすみませんすみませんと何度も謝りながら小学生たちを引きはがし、それに何ともないですよと苦笑いで返した後、小学生たちが去って人気のいなくなった静かな春の公園で一人、ユーリは黄昏る。先程会釈した同級生と思われた少女もいつの間にかいなくなっていた。

 着陸地点から少し離れたところの芝生の上、桜の木の下のベンチ。夏に葉の生い茂る季節になると地獄と化すそこに彼は若干疲れたように腰掛ける。見上げると桜のつぼみはすっかり膨らんで今にも内側から弾けそうになっていた。今週中には開花するだろう。

 空を見てため息をつく。三月の空は透き通るようなスカイブルーで、白い積雲が散らばっていた。正午をとうに過ぎた春の日差しはすでに若干傾きかけていて、西の空は傾く太陽に照らされてゆっくりと赤みを帯びていた。


「婚約者かぁ……」


 口から小さな言葉が漏れた。破天荒な母親だとは思っていたがまさかこんな形で人生の重要なことを決められるとは思っていなかっただけに想定外が過ぎる。

 アンジェリカ・マルグレーテ・イグナツ・ツァハ・ゲルラホフスカ。

 ユーリの幼馴染。幼いころから彼女に泣かされた回数は数えきれないほどあった。破天荒にして奔放にして傲慢な彼女ではあるのが率直なところ。しかし、そのくせしてその行動には優しさと誇りに裏付けされたものであるというのが、彼女という存在だとユーリは感じていた。

 だからこそそんな彼女に自分は惹かれ――まで考えたところで、ユーリはかぶりを振る。ごめん、やっぱ無理かも。ユーリは永遠に彼女に尻に敷かれ続ける未来しか見えなかった。あと姉と妹。アリシアとアリアンナ、二人とも中々癖が強い。

 どれほど物思いにふけっていただろうか。気が付くともう一度ため息をついていた。今度は深く、長い。ドラゴンブレスが混じり、ため息は白い冷気となって地面にたどり着くと地面を小さくだが白く染めた。

 とりあえずほとぼりが冷めるまでどこかにかくまってもらおう。そう思って頭の中で知人を検索していき、ふとそういえば新東京の大学に行った姉のことを思い出した。

 そうだ、真理マリ姉さんに事情を説明して匿ってもらおう。

 そうユーリは決めると、ベンチから立ち上がって翼を大きく広げる。先程は若干傾いていた程度だった太陽はすっかり傾いており、空が赤く染まり始めている。あっという間に薄暗くなるだろう。最初は一息つく程度のつもりだったが、長居しすぎたな、とユーリは思った。

 翼を広げ、霊力を翼に流し込み、飛行術式を機動させ、地面を蹴り、今まさに空に飛び立とうとしたその時――


『おーっほほほほっ!』


 ――耳によく馴染んだ、高笑いが公園に響いた。


「!?」


 思わず条件反射的にびくりと身を震わせると信じられない光景が広がった。

 夕焼けの色を含みだした空が、端から暗い色に染まっていく。黒に、赤を含んだ、宵闇の色。太陽はそれに塗りつぶされて、深紅に鈍く輝く。


『どこへ行くおつもりでして? あなたがわたくしから逃げようなどと、百年早いですわ!』


 最後のスカイブルーが赤く染まり、辺りはまるで皆既月食の夜の様に赤く染まった。ユーリの足が自然と震える。


「馬鹿な、早すぎる……!?」

『あなたが遅すぎるのですわ、ユーリ? こんなにおいしそうな匂いをふりまいて、これでは追ってくれと言ってるようなものですわよ?』


 闇が次第に形を成してくる。そこにユーリの視線はくぎ付けになった。闇から解け出てくるように現れたのは、暗いグラデーションの深紅のドレスを纏った、月の様に白い肌の少女。プラチナブロンドの髪は丁寧にストレートボブに切りそろえられ、丁寧に切りそろえられた前髪を上品に右に流した、その下の血の様に赤く輝く瞳がユーリの金色に輝く瞳を射抜く。

 少女が、丁寧に黒い刺繍がされた深紅の長手袋で覆われた右手をすぅ、と上げてユーリを指さす。その動作だけでユーリはびくりと身をこわばらせた。


「さぁ、観念なさい? ユーリ?」

「……それでも断るぅっ!」

「なっ!?」


 膝を曲げるユーリ。たとえ地面をぶち抜いてでもこのから抜けなければ勝機はない!


「――とでも言うと思いでして!? お姉さまっ!」

「どぉりゃああああっ!」

「ぐべぇっ!?」


 今まさに地面を木っ端みじんに踏み抜いて飛び上がろうとしたまさにその時、ユーリの腰に何か小さな物体が飛びついてきた。衝撃で彼は地面に顔面から突っ込んだ。


「捕まえたわよ! さぁユーリ、観念なさい!」

「あ、アリサ姉さん……」


 飛びついてきた物体はシャツにマントを羽織って胸元でブローチで留め、ペチコート付きのスカートを履いたクラシックロリィタ姿の少女だった。ユーリの肩ほどの身長に、プラチナブロンドの髪をツインテールにし、それを丁寧に縦ロールヘア―にしている。


「離して! 離して! 離せ! はなせぇっ!」

「ああっ、もう! 暴れんじゃないわよ! 暴れんじゃないわよ!」


 アリシアはその小柄な体からは考えられないほどの力でユーリを押さえつける。彼女の深紅の瞳が激しくきらめいた。しかしユーリも負けてはおらず、ドラゴンとしての力で必死に抵抗する。力は互角。体格に優れるユーリが若干有利だった。しかし――


「もう、ボクだっているんだからね? ユーリにい?」

「この声、アンナ!?」

「せいかーい!」


 どこからともなく響く声。それに反応した瞬間、ユーリと地面との間にあった影から少女が飛び出した。出るところは出、引き締まるところは引き締まった長身に、長いプラチナブロンドの後ろ髪を太い三つ編みにしている。深紅のグラデーションの入ったマイクロモノキニ、胸元をはだけたジャケットにこれまたほとんど水着と変わらないような短さのホットパンツをラフに履き、ロンググローブにガーターベルト、サイハイソックスにブーツと露出の高い恰好をしていた。飛び出した少女、アリアンナは一瞬でユーリの関節を極め、彼は動けなくなった。彼女の深紅の瞳が妖しく輝く。


「にい、ボクから逃げようとするなんてひどいよ。楽しみにしてたんだよ?」

「それはどういう意味の楽しみだったのかな!?」

「……」

「沈黙が怖い!」


 わたくしもまいりますわ! そういってアンジェリカが押さえつけられているユーリにとびかかる。三人は公園の芝の上でもみくちゃになった。


「大人しくなさい! 抵抗は無駄ですわ!」

「それでも……僕は未来を……あきらめないっ!」

「かっこいいこと言っているつもりだろうけどアンタっ、女の子にもみくちゃにされて言うセリフじゃないわよ!?」

「女の……『子』……?」

「よし、干物にしてやる」


 剣呑な目つきでアリシアが言った。墓穴を掘ってしまったようだった。


「ユーリにぃ、ボクもう我慢できないよ、はやくイこう?」

「僕は我慢できるアンナの方が好きだなぁ!」

「じゃあ我慢できないボクにお仕置きしてぇ」


 ダメだ、話が通じない。必死の抵抗むなしくユーリの上半身の服がいつの間にかはだけさせられていた。アンジェリカの目が深紅に妖しく光る。


「ええい、こうなったら実力行使ですわ! とりあえず、されて眠ってもらいますわよ!」

「やだぁ! やめてぇ! 誰か助けてぇ!」

「おーっほほほほっ! こんなところに助けに来る人などいませんわぁ!」


 若干怪しげなセリフのドッジボールをしながら、アンジェリカがユーリに馬乗りになる。小さくアリシアとアリアンナが後で私たちにも飲ませなさいよと言うのが耳に入った。そしてアンジェが口を開くと、鋭くとがった犬歯が深紅の太陽に照らされて光る。がっしりとユーリの首筋を掴むと、素早く、そしてどこか上品に顔をユーリの首元に沈めた。


「助けて! 助けてください! お願いします! おねっ……「かぷっ!」……うわああああああああああああああああっ!」


 鋭い痛み、それと共に全身に駆け巡るなにか温かいもの、そして体から何かを吸い上げられるような感触と共に――


「あっ……」


 ――ユーリは、意識を失った。

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