菫花

 優美な曲線と怜悧な直線の組み合わせが描く一輪。

 左右対称の花弁が陽光に滲んで映し出す青の濃淡。

 階段の踊り場の窓に嵌められた菫花の色硝子。

 この広いお屋敷の中で、あの窓を見上げるときだけ、私は自分自身を取り戻せるような気がいたします。それはきっと、あの菫花が、私の記憶の中で奥様と不可分のものとなってしまっているからなのでしょう。

 奥様こそ、私の最も崇敬するお方。奥様への想いだけが、嘘偽りない私の本心です。 

 あれほどお美しく、お可愛らしく、いじらしい方を、私は存じ上げません。

 初めて奥様にお目にかかった場所。まさにそれが、この階段の踊り場でございました。


 陽の高いある午後のこと。

 貧しい家族を養うため、勉学を諦めて資産家のお宅での女中奉公を選んだ私にとって、初め

て足を踏み入れたお屋敷の中はまさしく別世界でした。広いお庭、白亜の壁、高い天井、花房の形の照明、緋色に千花模様の絨毯。そして、菫花の色硝子。

 菫花の花弁が外光を透かして注がれる彩光。青色と一言で片付けることは憚られる多彩な色相。

 その色鮮やかな光を、尚一層色鮮やかな影が遮りました。あまりのお美しさに、私は何者が現れたのか初めは理解ができませんでしたが、よく見てみると、果たしてそれは女性でした。貴婦人が一人、階段を降りていらっしゃったのです。菫花の色硝子を背に歩むその姿は、まるで硝子から抜け出た菫花の化身のようで。私の目はすっかりその方に釘付けになってしまいました。

「いらっしゃい」

 飴色に艶めく木彫の手摺に手を添えて、その方は階下の私に微笑んで下さいました。

 青紫の市松に花模様のあしらわれた着物になよやかな身体を華やかに彩らせ、一段を降りる

度にその模様がゆらゆらと揺れるのもまたお美しい。

 耳隠しのお顔は小さくて、黒目がちの瞳も愛らしいものだから、思わず守って差し上げたくなるのに、明瞭とした眉には良家の子女らしい気高さがおありで。そして花蕾のような唇の品の良いこと。

 こんな美人になれたら、などという下等な憧れはありませんでした。ただこの方のお側にいたい、同じ空間で生きていたい、いつまでもそのお姿を目にしていたい、とそんな気持ちだけが充ち満ちていたのです。

「あなたが千代さんね。あたくしはここの家主の妻の綵子です。今日からどうぞよろしくね」

 そのとき私は、しばらく声をかけられたのに気がつけないほど、奥様に見惚れておりました。そして同時に、この家に、否、奥様に身を尽くす覚悟を固めたのです。

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