ただ、それだけ
ねえ先生、わたしはあの日初めて桜を見たの。淡く色づきたわやかに咲いた花。風に吹かれ音もなく波紋を広げた川の水面。わたしの髪を弄ぶ花嵐。時折冷たい顔を見せる日差し。あの日のこととあなたをわたしはそっと掌に広げる様に思い出すの。
*
わたし、美園繭の一日は味噌汁を作るところから始まる。味噌の香りが部屋に流れ込む頃、保先生は起きてくる。
「先生、おはようございます」
「おはよう、繭」
わたしが先生のお椀に味噌汁を注ぐと先生は体の電源を入れるかのようにその一杯をゆっくりと食べる。そして軽く身支度を整えて仕事に向かう。
「先生、いってらっしゃい」
わたしが玄関前で声をかけると先生は動作を止め、わたしの顔を見る。その一瞬だけ、先生を手に入れた気になる。
「行ってきます」
これが毎日のかけがえのないひと時。先生が出掛けるとわたしは食器を洗い、カジュアルなシャツと膝丈スカートに着替える。軽く化粧をして髪を緩く結んで支度を整えたら、家を出て会社に向かう。桜並木の川縁を歩いていると風が桜と繭の髪をくるくる弄ぶ。わたしはされる
がままに歩を進める。
「繭、仕事は慣れた?」
「はい」
帰りがけ都和さんに話しかけられ、わたしはゆっくり振り返る。
「それは良かった。変なお客さんとか、大変なことあったら何でも言ってね」
「ありがとうございます」
「じゃあ頑張ってね。あ、今日遅くなるけど家帰るから。保に伝えておいて」
都和さんはそう言い去って行った。言い残された言葉が思考回路にぬるりと侵入してくる。追い出そうにも抜けていかない。歩みは駆け足に、そして言葉を追い払うかのように走り出していた。
家に帰って料理をしても言葉はへばり付いて離れない。先生の顔を見るとさらに言葉は威力を増す。
「おかえりなさい。ご飯にしますか? 今日はお魚の煮つけです」
「それは美味しそうだ。都和さんは帰っているかい?」
そう、先生が気にするのは妻である都和さんのことだけ。
「まだです」
「そうか、じゃあ先に風呂をもらおうかな」
自室に向かう先生の背中を目で追いかけてしまう。
「先生……」
閉じられた扉の奥の先生にその言葉は届かない。
お風呂上がり、先生は新聞を片手に夕飯を食べる。
「あっ」
食事中でも錠を開ける微かな音に反応して先生は腰を浮かす。先生が玄関に向かうのをわたしには止められない。扉の奥、漏れ聞こえる二人の声。聞きたくないのに耳を聳ててしまう。
「繭、ただいま」
「……、おかえりなさい」
「都和さん、今日は繭が煮つけを作ってくれたんだ。美味しいよ」
「ん、頂こうかな」
都和さんは椅子に腰かけ、先生は台所に向かう。お盆の上には盛り付けられた煮魚とビール。
「飲むだろ?」
「ありがと」
ビールを二つのグラスに分け、軽く交わして喉を鳴らす。二人の他愛のない会話、時折わたしを取り残さないように言葉が回される。でも、だからこそ、先生からの熱量がどう向けられているか如実に見える。妻である都和を愛していて、わたしのことなんてなんとも思っていない。そんなこととうの昔から知っている、筈なのに。
「……、繭? 繭、大丈夫かい?」
先生と都和の四つの瞳がこちらを向いている。わたしは慌てて上を向く。
「ええ、大丈夫です」
あの人にはこんな感情浮かんでなかったのに。
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