春は恋の季節
男は今月、町の駅から小さな高原の駅に異動になった。ここは静かで、人も少ない。彼のたっての希望が叶った異動だった。
乗降客のない二両編成の終電を無事に見送り、彼はホッとして左手の敬礼を下げた。
「駅長さん」
声がした。誰もいないはずなので彼は驚いた。振り向くと、知らぬ間に女が立っていた。
「今のが終電かしら」
「は、はい。今のが終電です」
そう、と女は小さく呟いた。長い髪が、春の夜風にさらさらと揺れていた。
彼女はもう行ってしまった電車を追うように、山の間へ消えていく線路を、静かに見つめている。
「終電に乗ろうとしたんですか? タクシーを呼ぶなら駅の電話をお使いいただけますが」
男の言葉に、女は目を伏せた。化粧気のない顔。ゆったりとした白いノースリーブのワンピースに、黒いサンダル。若くはない、しかし老いてもいない、掴みどころがない。
女は、すぅ、と二、三歩歩いて、ベンチに腰掛ける。
「ねえ、N駅ってご存知?」
彼女はゆっくりと瞬きをして彼を見上げた。その顔に男は、どこかで見た顔だ、とぼんやり思いながら頷いた。
「ええ。先月までそこの駅長をしていました。私はこれから、その駅にある宿舎まで帰ります」
「どうやって帰るの? 車?」
「いえ、保線車両で」
「そう。……あのう、あのね、わたしも連れて行ってもらえないかしら」
男は困って、視線を動かした。
「保線車両は職員しか乗れないんです。人を乗せて運ぶ車両ではないですし、なにより乗り心地が悪い」
「そんなの構わないわ、大丈夫よ」
「こんな時間にN駅まで行ったとして、貴女はどうするおつもりです?」
「夫が待ってるの。どうぞこちらのことは気にせずに」
女は目を細めてにこりと笑った。何か事情がありそうだということは男にもわかる。しかし、経験上、この手の人物は頑固だ。きっと要求を通すまで駄々をこねるだろう、と彼は考えた。
「……日報を書いたり、簡単な片付けをしますから、少しお待たせしますよ」
女は素直に頷いた。駅長室へ向かう男の後を、女はついていった。静かなプラットフォームに、カランカランとサンダルの音が響いた。
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